少弐貞経(しょうに・さだつね) 1272?〜1336

少弐盛経の子。筑前・豊前・対馬守護。鎮西探題評定衆。大宰少弐。
正和5年(1316)に筑後守、筑前守護となる。元亨3年(1323)、対馬守護。
正慶2:元弘3年(1333)3月13日、後醍醐天皇の皇子・護良親王からの鎌倉幕府追討の令旨に応じた菊池武時が鎮西探題・北条(赤橋)英時の襲撃を企てた際、予め武時や大友貞宗と密約を結んでいたにも関わらず、武時から遣わされた使者を斬ってこれに応じず、武時を敗死に至らしめた(菊池合戦)。
しかし京都や関東で後醍醐天皇方が優勢なのを知ると、後醍醐天皇に味方した足利尊氏の指揮下に入り、5月25日に九州のほぼ全域の武士と共に鎮西探題を襲撃して英時を自刃させた(博多合戦)。また、建武4年(=建武元年:1334)1月に規矩高政が筑前国帆柱岳城に、糸田貞義が筑後国堀口城にそれぞれ拠って鎮西探題復興の兵を挙げると、帆柱岳城を攻めて高政を討ち取った。それらの功により、建武政権下で筑前・筑後・豊前の守護に任ぜられる。
建武2年(1335)の秋に尊氏が建武政権から離脱するとこれに応じ、翌建武3年(1336)2月、西国に下向してきた尊氏を迎えるために子・頼尚を長門国赤間関に遣わした。
しかしその留守に南朝方の菊池武敏阿蘇惟直らによる攻撃を受け、貞経は大宰府城から退いて有智山(内山)城に移ったが、同年2月29日、抗しきれずに同城で自刃した。法号は妙恵高鑑。
尊氏はその死を悼み、菩提所安養院に菩提料田として筑前国小田郷を寄進したという。