阿蘇惟直(あそ・これなお) ?〜1336

肥後国阿蘇社の大宮司。阿蘇惟時の子。
正慶2:元弘3年(1333)、阿蘇社の大宮司職を父・惟時より譲られる。
同年、鎌倉幕府の命を受けて惟時や阿蘇惟澄らとともに河内国千早城攻めに向かう途次、後醍醐天皇の皇子・護良親王から討幕の決起を促す令旨を受けると天皇方に与することを決め、惟時はそのまま畿内に向けて進み、惟直は帰国して決起に備えた。
同年3月には菊池武時らと結託し、九州における幕府の出先機関である鎮西探題の襲撃に加わったが、大友貞宗少弐貞経らの変心により失敗すると武時の子・菊地武重とともに落ち延び(菊池合戦)、同月下旬には鎮西探題からの追討軍に阿蘇社を襲撃されたが、これも落ち延びた。
建武3:延元元年(1336)2月末、建武政権から離反して九州に向かってきている足利尊氏に対抗するため、菊池武敏とともに、足利方となっていた少弐氏の本拠・筑前国大宰府に侵攻して少弐貞経を討った。
続く3月2日の多々良浜の合戦にも菊池武敏・秋月種道らとともに足利勢と戦ったが、大敗を喫して肥前国小城郡天山(小杵山)で自刃した。弟の惟成も付近で敗死している。