菊池武重(きくち・たけしげ) ?〜1338?

肥後国菊池氏第13代。菊池武時の嫡男。通称は次郎。肥後守。
正慶2:元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇の綸旨に応じた父・武時らとともに鎮西探題の襲撃を企てたが、少弐貞経大友貞宗らの裏切りによって武時や弟の頼隆は討死、武重は阿蘇惟直とともに逃れて肥後国に帰還した(菊池合戦)。また元弘4年(=建武元年:1334)1月に得宗北条一族の糸田貞義が挙兵すると、この鎮圧に出陣して糸田城を攻め落とし、これらの功で肥後守に叙任された。
後醍醐天皇の建武政権においては武者所に所属し、新田義貞の下にあったようである。建武2年(1335)の中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が鎌倉に留まって建武政権から決別すると、その追討を命じられた新田義貞に従って出征し、同年12月の箱根・竹ノ下の合戦では弟・武吉とともに新田軍の先陣として足利直義軍と戦って活躍するが、戦いは自体は敗戦となって京に退く。これを足利勢が追撃したが、大渡で3日間に亘って防いだ。
建武3:延元元年(1336)5月、尊氏が九州から京都を目指して東上してくると、武重は新田軍に属して備中国福山城、さらに摂津国兵庫の湊川で防戦に努めた(湊川の合戦)。しかしこの防衛線を破られて尊氏が入京すると後醍醐天皇は比叡山に難を避けるも10月10日に帰京、この間武重は天皇に供奉しており、入京の際に捕えられたが、のちに逃れて肥後国へ帰還した。
建武4:延元2年(1337)2月、肥後国寺尾野城に兵を挙げて九州南朝勢(宮方)の決起を促し、3月には肥後国南域で、4月には恵良(阿蘇)惟澄とともに肥後国益城郡の犬塚原で九州探題・一色範氏と交戦するなど、各地で北朝勢(武家方)と戦った。
その後の建武5(=暦応元):延元3年(1338)3月には筑後国石垣城に、4月には肥後国府で、10月には筑後国の小清水山・畑城で北朝勢と戦うなど精力的に活動したが、それ以降は史料上から姿を消す。
没年には暦応4:興国2年(1341)、康永元:興国3年(1342)8月3日など諸説あるが、その後の菊池氏の動静や、北朝勢の攻撃目標が暦応元:延元3年10月までは武重であったが翌年には弟の菊池武敏とされていることなどから見て、暦応元:延元3年末頃が妥当であろうと目されている。
武重が一族の団結を求めて起草したといわれる延元3年7月25日付の『菊池武重起請文(寄合衆の内談の事)』は、日本最古の血判の残る文書として著名である。