菊池(きくち)合戦

2度目の討幕計画に失敗した後醍醐天皇は、元徳4(=正慶元):元弘2年(1332)3月に隠岐国に配流となった(元弘の変)。しかし後醍醐天皇はなおも討幕の志を失わず、翌正慶2:元弘3年(1333)閏2月に隠岐から脱出して伯耆国の土豪・名和長年に迎えられ、船上山に拠って討幕の軍勢を招集し、皇子の護良親王(大塔宮)もまた諸国の社寺および武士に令旨を発して決起を促すなどの討幕運動を続けていた。
肥後国菊池郡を本拠とする菊池武時も後醍醐天皇からの討幕の綸旨(あるいは護良親王の令旨)を下されたひとりである。武時はこれに応じる決意を固め、北九州の雄族である少弐貞経大友貞宗と示し合せて鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題の襲撃を画策したのである。また、伊予国の土居・得能の両氏を通じ、土佐国に配流されていた尊良親王と連絡を取って密かに肥前国彼杵郡に迎えたともされる。
しかし鎮西探題も九州の反幕府勢力の動きを警戒し、同年3月に九州の地頭や御家人を探題館のある博多に招集した。武時はこれに応じて250騎を率いて出仕、3月11日には博多に到着して息浜(おきのはま)に投宿した。そして翌12日には探題館に出頭したが、探題の侍所の下広田新左衛門尉(久義)は遅参を理由に着到(名簿への記載)を拒否したのである。
その翌13日の寅刻(午前4時頃)、武時は博多の街の所々に火を放ち、阿蘇惟直らとともに探題館襲撃の挙に出た。武時は着到を拒否されたことから襲撃計画が察知されていることを看破し、その根拠は後述するが、14日あるいはその後数日のうちに予定していたと思われる襲撃計画を前倒しにして実行に移したのである。
武時はこれと併せて決起を約束していた少弐貞経と大友貞宗に「宣旨の使い」として使者を派遣して探題襲撃に加わるよう促したが、この両名は約束を守らず、大友貞宗は武時からの使者を捕えようとしたが取り逃がし、少弐貞経に至っては捕えた使者の首を刎ねて探題に差し出したという。当時の情勢は、船上山には未だ天皇に味方する軍勢が集まらず、護良親王は拠地の吉野が陥落して行方不明となっており、楠木正成の赤坂城も幕府の大軍に攻め落とされたとの噂が広まるなど、天皇方に不利であった。このため、決起を取りやめて探題に加担したのであろう。

武時らは松原口・辻堂方面から探題館に押し寄せようとしたが延焼のため通れず、やむなく道を替えて早良小路を経て櫛田浜口に出た。一方の探題館でも武時の挙兵を知り、息浜の洲崎から櫛田浜口にかけて北条武蔵四郎・武田八郎の軍勢を派遣して迎撃にあたらせた。
しかしこの武時らの襲撃は失敗に終わり、同陣していた武時の嫡子・武重と阿蘇惟直は落ち延びたが、武時とその息子・頼隆は犬射馬場で討ち取られた。武時の弟・覚勝は若党たちを率いて探題館の「御壺」(中庭)まで攻め込んで激しく戦ったが、その全員もが討ち取られたのである。
この戦いは辰の半刻(午前9時)頃には終わり、武時をはじめ頼隆や覚勝ら菊池方将兵の二百数十に及ぶ首が犬射馬場に懸けられたという。
少弐貞経が武時からの使者の首を探題に差し出したことは先述したが、これはこの武時の襲撃が失敗に終わって半日も経った夕方になってからともいわれる。これは二重の裏切り行為ともいえるが、「勝つ方に味方したい」という当時の武家の本心が如実に表れた行動といえよう。

その翌14日には肥前国彼杵郡江串村の豪族・江串三郎入道が尊良親王を奉じて挙兵に及んだ。この江串勢も間もなく鎮圧されているが、武時は当初、尊良親王・江串入道と呼応して兵を挙げ、少弐・大友の来援を見越した襲撃計画を練っていたものと思われるのである。