畠山国清(はたけやま・くにきよ) ?~1362

畠山家国の子。正五位下・左近将監・阿波守・左京大夫・修理大夫。法吊は道誓。
はじめは足利直義に属し、建武2年(1335)11月に足利氏追討の勅命を受けた新田義貞を三河国矢作川で迎撃するために出陣、箱根・竹ノ下の合戦ののちに敗走する新田軍を追って京都に進撃してからは足利尊氏に従う。
翌建武3年(1336)1月に尊氏が北畠顕家や新田義貞の軍勢に敗れて九州へ向かうとそれに従い、東上後の5月にはその功によって和泉守護、9月には紀伊守護に補任される。
観応元:正平5年(1350)には河内守護にも任じられたが、尊氏と直義の上和が激化(観応の擾乱)すると直義に味方し、翌年8月に直義が京から北陸に出奔するとこれに随行したため、和泉・河内・紀伊の守護職を失う。しかしほどなく直義から離反して尊氏に従い、同年末の駿河国薩埵山の合戦においては尊氏方として出陣している。
その後は関東公方(当時は関東管領と呼ばれた)・足利基氏の執事となり、観応3:正平7年(1352)3月には伊豆守護に任じられている。
関東地方の直義党および南朝勢力を鎮圧するため、文和2:正平8年(1353)7月より武蔵国入間川に在陣し、延文2:正平12年(1357)12月には武蔵守護に任じられた。
延文4:正平14年(1359)10月、京都の将軍・足利義詮を助勢するために関東の大軍を率いて出陣、河内国や紀伊国を転戦して南朝軍討滅を画策するが、長期に亘る遠征であったために無断で帰国する将兵が相次いだことや仁木義長との上和などから、翌年8月に鎌倉に帰る。この後、無断帰国した将兵の所領を没収するなどの圧制を布いたため、 康安元:正平16年(1361)11月に執事職を罷免されるとともに追放された。
失脚を余儀なくされた国清は領国の伊豆国に籠って一族と共に叛乱を企てるも、基氏の派遣した軍勢に攻められて翌年9月10日に出家して降った。しかし殺意があるのを知って藤沢道場に入り、のち上京して七条道場に入り、時衆を頼って南朝に降ろうとするが、果たさずに9月25日に奈良に没したという。なお、その没年は一説(『畠山家記』)に貞治3:正平19年(1364)と伝える。