上杉憲春(うえすぎ・のりはる) ?〜1379

関東管領・山内上杉憲顕の子。上杉能憲の弟。上杉憲方の兄。左近将監・刑部大輔。関東管領。
応安元:正平23年(1368)、河越直重ら武蔵国平一揆および越後・上野国境における新田義宗・脇屋義治らの蜂起に際し、兄の能憲とともに出陣してこれを破った。
応安4:建徳2年(1371)閏3月までには能憲より上野守護職を譲られていたとみられ、永和4:天授4年(1378)4月の能憲の死没に際して関東管領職と武蔵守護職を継承したとされるが、その前年の永和3:天授3年(1377)4月には関東管領としての活動がある。しかし山内上杉氏の家督は弟の憲方に譲られ、憲春の継承とはならなかった。
関東管領職の継承後は鎌倉公方・足利氏満を補佐したが、永和5(=康暦元):天授5年(1379)に幕府から土岐頼康討伐令が下されると、これに応じる体裁で出兵して将軍・足利義満を討とうとする企てが氏満にあることを知り、たびたび諫止したが聞き入れなかったため、同年3月8日に諫書を遺して鎌倉の自邸で自害した。法名は大沢院高源道珍。
この後、氏満は叛意を断念して義満に詫びて和睦するに至るが、土岐討伐への出兵を3月11日以降とする史書もあり、それが事実とすると氏満は憲春の諌死をも聞き入れずに出兵に踏み切ったことになる。