土岐頼康(とき・よりやす) 1318〜1387

土岐頼清(頼宗)の長男。刑部少輔・大膳大夫・右馬権頭。美濃国厚見郡革手城を本拠とした。美濃・尾張・伊勢守護。
康永元:興国3年(1342)12月、叔父で美濃守護であった土岐頼遠が光厳上皇に対する狼藉の罪で処刑されたのち、そのあとを受けて美濃守護となる。
南北朝の抗争においては北朝方(足利尊氏方)、観応の擾乱においても尊氏方に与し、観応元:正平5年(1350)、南朝に与して蜂起したと思われる一族の土岐頼直・土岐周済(周清・周勢、土岐頼明と同一人物か)らの鎮圧に尽力し、観応2年(1351)10月までには尾張守護にも補任され、文和2:正平8年(1353)に侍所頭人となる。
延文5:正平15年(1360)7月から貞治5:正平21年(1366)8月には伊勢守護をも兼ね、3ヶ国の守護として幕政を左右する有力大名に成長した。
貞治6:正平22年(1367)に三井寺と南禅寺の争論についての対策上から細川頼之と不和になったといい、永和5(=康暦元):天授5年(1379)1月には大和国の興福寺とその国民である十市・越智・秋山氏の抗争に際して鎮圧を命じられて出兵しているが、2月に至って頼之に反抗して帰国した。このため3代将軍・足利義満より追討の対象とされたが、頼之の政敵であった斯波義将と結び、同年4月に頼之が失脚して義将が管領となると(康暦の政変)赦免され、同年5月には伊勢守護に再任されている。
嘉慶元:元中4年(1387)12月25日に没した。享年70。法名は善忠。