上杉憲方(うえすぎ・のりかた) 1335〜1394

関東管領・山内上杉憲顕の子。上杉能憲憲春らの弟。左京亮・安房守。号は道合。関東管領。
永和2:天授2年(1376)5月、兄・能憲より山内上杉氏の家督と伊豆守護職を譲られる。
永和5(=康暦元):天授5年(1379)に幕府より土岐頼康の討伐令が下されると、これに応じた鎌倉公方・足利氏満の命を受けて2月(一説には3月)に軍勢を率いて出陣しているが、これは氏満が京都の将軍・足利義満を討つためのものだったともいわれる。しかし3月に関東管領であった兄・憲春が氏満への諌書を遺して自害したことが京都に伝わると、駿河国三島に軍勢を留め、義満からの御内書を受けて鎌倉に戻っている。
憲春の死去を受けて同年4月15日に関東管領に任じられ、ついで武蔵・上野守護をも兼帯。
康暦2:天授6年(1380)、下野国小山祇園城主の小山義政の討伐には大将のひとりとして出陣し(小山義政の乱)、永徳元:弘和元年(1381)10月には、小山氏から没収された下野守護も兼ねる。
永徳2:弘和2年(1382)1月、いったんは関東管領職を辞任したが同年6月に再任され、明徳3:元中9年(1392)4月23日、病気のため再び辞して子の憲孝を名代とした。
その間には小山若犬丸の反抗(小山若犬丸の乱)の鎮圧に従軍、嘉慶2年(1388)6月には安房守護に就いており、5ヶ国の守護を保持した。
応永元年(1394)10月24日に没した。享年60。鎌倉に明月院を建てたので、法名を明月院天樹道合といい、同寺に葬られた。
一般的には上杉憲顕に始まる系統を山内上杉と呼称しているが、厳密には憲方が鎌倉の山内に居館を構えて山内殿と称されるようになったことが始まりである。