康暦2:天授6年(1380)5月、下野国小山祇園城主の小山義政が、同国で競合する宇都宮城主の宇都宮基綱を討った(裳原の合戦)。
この抗争は、義政が南朝方として挙兵したとも、所領を接するが故の私闘が原因であるともされるが、両者の対立を制止しようとしていた鎌倉公方・足利氏満の命を無視しての出兵であったことから氏満の怒りを買うこととなり、6月には鎌倉府管国の関東8ヶ国に小山義政討伐の軍勢督促が発せられた。
鎌倉府軍の大将には関東管領の山内上杉憲方と犬懸上杉朝宗、木戸法季の3人が任じられ、6月15日には氏満自ら出陣し、武蔵国の府中を経て村岡に滞陣して京都の将軍・足利義満に義政討伐の件を報告している。
鎌倉府軍の先陣は7月14日に下野国天明に迫り、8月12日には上杉勢や白旗一揆の活躍で義政の居城・小山祇園城目前の大聖寺で小山勢を破り、29日には祇園城の西木戸口まで押し寄せて城を囲んだため、義政は支えきれず、村岡の氏満本陣に使者を送って降伏を申し出た。氏満はこれを容れて武蔵国府中まで戻って義政の来陣を待ったが、義政は来なかった。偽りの降伏であったのである。
このため氏満は同年12月に京都の義満に使者を送って小山氏再征の許可を願って認められ、翌永徳元:弘和元年(1381)2月には再び軍勢を動かした。先陣は先と同じく上杉憲方・朝宗、木戸法季らである。同年6月より下野国に攻め入った上杉朝宗らは8月、祇園城南の鷲城にまで迫るも小山勢の頑強な抵抗にあって攻めあぐねていたが、11月16日に至って白旗一揆勢が外城(外郭)の城壁の破却に成功し、12月6日から空堀を埋めはじめたことで戦況が鎌倉府軍方に傾くと、戦意を失った義政は隠居して嫡男・若犬丸に家督を譲り、再び降伏を申し出て許された。
しかしそののちの永徳2:弘和2年(1382)3月、義政は祇園城に放火し、若犬丸とともに逃走。都賀郡の粕尾の山中に築いた城に拠って3度目の蜂起に及んだが、4月に入るとまたもや上杉朝宗らからの追討を受けることとなり、長野城・寺窪城・櫃沢城などを次々と落とされて没落、ついには追手に囲まれて4月13日に自害したのである。
伝承では、義政らは粕尾川伝いに逃れているところを包囲され、随行していた郎党とともに自刃したが、その血が河原の石を赤く染めたため、その辺りを赤石河原と呼ぶという。
なお、若犬丸はその直前に別行動で落ち延びている。