小山若犬丸(おやま・わかいぬまる) ?〜1397

下野国小山氏第11代・小山義政の嫡男。通称は悪四郎。若犬丸とは幼名で、『下野国誌』所収の小山系図のみ実名を隆政とするが、他の史料では実名を確認できない。
永徳元:弘和元年(1381)12月、2度目の叛乱を鎮圧された父・義政が鎌倉府に降伏する際に家督を譲られたが、永徳2:弘和2年(1382)4月、3度に及んで鎌倉府に反抗した義政が鎌倉公方・足利氏満の追討を受けて自害(小山義政の乱)したのち、密かに逃れて潜伏した。『鎌倉公方九代記』や『喜連川判鑑』では陸奥国田村荘司で三春城主の田村則義のもとに匿われたとされているが、これは後年の行動を混同したもの、とする見解もある。
この義政の敗死と若犬丸の没落によって小山氏の嫡流は断絶したが、その4年後の至徳3:元中3年(1386)5月に若犬丸は旧領の下野国小山祇園城で蜂起し、6月には鎌倉府から派遣された下野守護代・木戸修理亮の軍勢を撃退したが、7月に至って自ら下総国古河まで出馬した氏満の追討を受けて敗走し、行方をくらました。
その後は常陸国小田城主・小田孝朝を頼ったが、至徳4(=嘉慶元):元中4年(1387)5月にそれが発覚し、鎌倉府軍の侵攻を招くこととなる。小田氏の抵抗は嘉慶2:元中5年(1388)5月に難台山城が攻略されるまで続けられたが、若犬丸は落城時には既に逃れていたようである。
その8年後の応永3年(1396)2月、小山城に拠って3度目に挙兵に及ぶ。小山祇園城は至徳4(=嘉慶元):元中4年8月(1387)頃より結城基光が警固していたとされているため、同城で挙兵したとは考え難く、小山地域のどこかで挙兵したものと思われるが、再び足利氏満の軍勢によって鎮圧されて陸奥国へ逃れて消息を絶った(小山若犬丸の乱)。この後に田村氏の庇護を受けたともされるが、史料から確実な動向を辿ることはできず、不詳と言わざるを得ない。
しかし翌応永4年(1397)1月15日(一説には25日)、陸奥国会津の蘆名氏に捕らえられて自害した。法名は明賢。捕えられた若犬丸の2人の遺児・宮犬と久犬も、鎌倉に護送されたのちに処刑された。