上杉重能(うえすぎ・しげよし) ?〜1349

詫間上杉氏の祖。父は勧修寺別当の宮津入道道免。母は上杉憲房や清子らの妹・加賀局。
鎌倉の詫間谷に屋敷を構えたことから、この重能の系統を詫間上杉氏と称す。
伯父・上杉憲房の養子となる。
正慶2:元弘3(1333)、母方の従兄弟にあたる足利尊氏に従って六波羅探題への攻撃に参陣し、鎌倉幕府滅亡後に樹立された建武政権下では、尊氏のもとで伊豆守・武蔵守護代を務め、関東廂番の6番の奉行。その後、建武2年(1335)の中先代の乱を鎮定した尊氏が鎌倉に留まって後醍醐天皇に叛いた際にはそれに従い、建武3:延元元年(1336)11月に尊氏が建武式目を制定し、政務を弟の足利直義に委ねると、扇谷上杉朝定と共に直義の管掌する引付方頭人に任じられて直義と密接な関係を築いた。建武5年(1338)には石塔義房に代わって伊豆守護にも任じられたようである。
貞和元:興国6年(1345)、尊氏の建立による天龍寺供養に供奉する。
直義と尊氏の執事である高師直らとの確執が深まると、直義方の急先鋒となって師直を非難。このため師直は貞和5:正平4年(1349)閏6月に執事職を罷免されるが、同年8月には反撃に出た師直が大軍を擁して京都の直義邸を包囲するという事態となり、これが観応の擾乱の端緒となった。
このときの和睦条件によって畠山直宗と共に越前国への流罪に処されたが、師直の命によって同年12月に越前国江守荘の配所で謀殺された。法名は報恩寺秀峯道宏。