新田義顕(にった・よしあき) ?〜1337

新田義貞の長子。通称は小太郎。越後守。
正慶2:元弘3年(1333)5月の鎌倉の戦いでの軍功により従五位上に叙され、越後守に任ぜられる。また、建武政権の機構においては武者所の一番頭人を勤めた。
義貞の嫡男として後醍醐天皇の信任厚く、建武2年(1335)の中先代の乱鎮定後も鎌倉に留まっていた足利尊氏を義貞らが追討に向かった際、これには従軍せずに京都を守衛した。この追討軍を撃退した尊氏が軍勢を率いて京都に進撃してくると、翌建武3年(1336)1月に義貞と共に防衛線のひとつである大渡に布陣し、後陣に在った義顕は敗走する本隊が撤収する時間を稼ぐために3千ほどの兵で6万とも称される細川定禅の軍勢に立ち向かい、半死半生の深手を負った。
同年5月の湊川の合戦にも従軍したが敗れ、その後の京都での攻防戦においても奮戦したが奪回は成らず、後醍醐天皇は同年10月に尊氏と和議を結んだが、義貞が後醍醐天皇の皇子である恒良・尊良の両親王を奉じて北陸地方に進出するとこれに随行し、越前国金ヶ崎城に拠る。
この後、義顕は義貞の命を受けて越後国へ向けて出立したが、その直後より越前守護・斯波高経を主力とする北朝勢が金ヶ崎城への攻撃を開始したことを知ると帰還。よく防戦して一時は北朝勢の攻撃を退けるも、長期に亘る大軍の包囲を受けて孤立を余儀なくされ、翌建武4:延元2年(1337)3月2日より総攻撃を受けて抗戦を断念し、6日に尊良親王と共に自害した。
生年不詳であり、享年についても21、19、18の諸説がある。