少弐冬資(しょうに・ふゆすけ) 1333?〜1375

筑前国少弐氏第7代。少弐頼尚の二男。通称は筑後孫次郎。大宰少弐。筑前守護。
鎌倉時代より筑前守護を相伝する少弐氏は大宰府を守護所としていたが、父・頼尚の時代の延文4:正平14年(1359)8月の筑後川の合戦(別称:大保原の合戦)で南朝の征西将軍宮・懐良親王を擁立する菊池武光に敗れて大宰府を奪われるなど勢威の回復ならず、大友・島津氏らとともに幕府に新たな九州探題を請い、康安元:正平16年(1361)10月には斯波氏経を九州に迎えた。
冬資は同年に筑前守護職に就いていることから、この頃に頼尚より家督を委譲されたものと思われる。
翌康安2(=貞治元):正平17年(1362)9月、斯波氏経の要請に応じて筑前国長者原の合戦に従軍するも、敗戦を喫した。
応安4:建徳2年(1371)12月末、前年から新たな九州探題に任じられていた今川了俊が九州に入部するとこれに従うが、応安5:文中元年(1372)8月に南朝方の拠点となっていた大宰府を陥落させるなどして声望を高めた了俊と筑前国の支配をめぐって対立するようになったようである。
永和元:天授元年(1375)、了俊は菊池氏の拠る肥後国の菊池本城(隈部城)に迫り、九州の雄族である少弐冬資・大友親世島津氏久の来援を得たうえで勝敗を決しようとし、参陣を呼びかけた。冬資は当初はこれに応じようとせず、のちに島津氏久の説得を受けてようやく九州探題軍が陣所を構えていた肥後国水島に赴いたが、以前から了俊に非協力的であったことから南朝軍に通じていたとの疑念を持たれ、8月26日に了俊の催した宴席にて謀殺された(水島の陣)。法名は天岸存覚。