島津氏久(しまづ・うじひさ) 1328〜1387

島津氏第5代・島津貞久の四男。母は大友親時の女。通称は又三郎。三郎左衛門尉とも称す。修理亮・越後守・陸奥守。大隅守護。島津氏奥州家の祖。
当時の九州は足利直冬の下向以来、武家方(足利尊氏:北朝方)・宮方(南朝方)・佐殿方(足利直冬方)の鼎立状態となっていたが、島津氏は武家方に与し、氏久は主に大隅国方面の経略を担って文和3:正平9年(1354)8月には鹿児島東福寺城に入り、康安元:正平16年(1361)には拠城を大隅国の大姶良や志布志に移しつつ宮方勢力と戦い、勢力圏を大隅国から日向国南部にまで拡大した。
貞治2:正平18年(1363)2月(あるいは父・貞久死後の同年7月)に貞久の兼帯していた大隅守護職ならびに薩摩国鹿児島郡・指宿郡地頭職などの所領を相伝し、島津氏奥州家の初代となる。この奥州家とは、氏久の官途名によるものである。
島津氏総州家を称した兄の師久は同時期に島津氏6代の家督と薩摩守護職を継承したが、応安元:正平23年(1368)(一説には貞治5:正平21年:1366)に守護職を子・伊久に譲っており、実質的には氏久が師久に代わって家中を差配したとみられる。このため、師久と氏久の両名が島津氏6代と数えられる。
永和元:天授元年(1375)8月、武家方の九州探題・今川了俊の来援要請に応じて肥後国水島に出陣し、さらには少弐冬資の勧誘にも尽力して来援の約定を取り付けたが、この陣場において了俊が冬資を謀殺した行為に不信感を抱いて撤退し(水島の陣)、宮方に与した。
このため、大隅守護職や総州家の薩摩守護職が没収されて翌永和2:天授2年(1376)8月に了俊の手に移され、翌永和3:天授3年(1377)10月には了俊が南九州の国人領主らに一揆を結成させて島津氏に対抗させたため孤立するなどの圧迫を受け、一時は和睦に応じる態度を見せたこともあるが、基本的には了俊に抵抗する姿勢を貫いた。
のち鹿児島に帰り、嘉慶元:元中4年(1387)閏5月4日に没す。享年60。法名は玄久齢岳。墓は志布志大慈寺即心院跡、大姶良竜翔寺跡、鹿児島福昌寺にある。
馬術の名手としても知られ、著書に馬術書の『在轡集』がある。