大友親世(おおとも・ちかよ) ?〜1418

豊後国大友氏第10代当主。大友氏第8代・大友氏時の二男。母は不詳。第9代・大友氏続(氏継)の弟。幼名は千代松丸。従五位下・修理大夫・式部丞。祖高と号す。豊後・筑後・日向守護。
父の氏時は貞治3:正平19年(1364)7月に長子の氏続に家督と豊後・筑後守護職を譲って応安元:正平23年(1368)3月に没したが、この氏続が応安4:建徳2年(1371)頃に南朝方(宮方)に転じ、親世は北朝方(幕府方)の立場を維持したため、幕府より豊後守護職を安堵されている。筑後守護については親世が任じられたという記録はないが、他の者が任じられたという記録も見えないので、それまでの経緯からみても親世に安堵されたものと思われる。
同年7月、幕府より九州探題に任じられた今川了俊の子・今川貞臣(義範)を領国の豊後国に迎えて南朝方の主力であった菊池氏を圧迫するなど、了俊の指揮下に参じて九州の北朝勢力の挽回に貢献した。
しかし永和元:天授元年(1375)8月、肥後国水島の陣において了俊が少弐冬資を謀殺したこと、同年に了俊が筑後守護職に就いたことなどから了俊への不信感を強めた。
また、永徳3:弘和3年(1383)7月までには了俊が兼帯していた日向守護として名が見えるが、この職は嘉慶元:元中4年(1387)には再び了俊が有している。
応永2年(1395)閏7月、了俊が九州探題を解任されて翌月に九州から去ると、親世が探題代行になったという。この了俊の解任理由は複合的なものであるが、そのひとつとして大内義弘と、その娘婿であった親世の策謀があったともいわれる。
翌応永3年(1396)に了俊の後任として渋川満頼が九州探題に就任すると親世は九州奉行に任じられ、渋川氏を支援してこれに反発する少弐貞頼菊池武朝らと戦った。
応永6年(1399)に筑後守護となる。
同年12月、応永の乱で岳父の大内義弘が討死し、翌年にはその後継をめぐる抗争で逃れてきた大内盛見を領国に庇護しており、この盛見はのちに大内氏の当主となっている。
応永23年(1416)、氏続の子・大友親著に家督や諸職を譲る(一説には応永8年:1401)。
応永25年(1418)2月15日、豊後国府内で没した。