大内盛見(おおうち・もりみ) 1377〜1431

名を「もりはる」とも読む。大内弘世の六男。大内義弘・満弘の弟。大内弘茂の兄。通称は六郎。
応永3年(1396)末頃に九州で少弐貞頼菊池武朝らが挙兵すると、長兄・義弘の命を受け、兄の満弘とともに九州探題・渋川満頼への援兵として赴いた。
応永6年(1399)12月、幕府に反抗して和泉国堺で兵を挙げた義弘が敗死し(応永の乱)、同行していた弟の弘茂は幕府に降って周防・長門国の守護職を安堵されたが、盛見は国許にあって弘茂と絶ち、応永7年(1400)に幕府が盛見の追討を決めて弘茂らの軍勢を差し下すと、大友氏を頼って豊後国に逐電した。
応永8年(1401)12月に長門国府中に上陸して弘茂を滅ぼし、翌年の春に周防国山口に凱旋した。その後は弘茂の余党を征し、応永10年(1403)には幕府が弘茂の後継者として立てた弟の介入道道通をも破り、実力で大内氏の家督を継承した。この事態に幕府も盛見の家督を認めざるを得ず、周防・長門国の守護に任じ、応永11年(1404)頃には豊前国の守護職をも与えて北九州経営の要とし、九州探題を補佐させることにした。
以後は在洛することが多かったが、応永32年(1425)4月に少弐満貞・菊地兼朝が蜂起して九州探題の渋川義俊を逐うと、帰国して10月には少弐・菊地氏の軍勢を鎮圧。永享元年(1429)10月に上洛して将軍・足利義教に出仕し、義教から御料国(幕府直轄領)である筑前国の管轄を委ねられて実質的な守護となった。
しかし筑前国に所領を有する大友持直や、持直と結んだ少弐満貞・菊池兼朝らとの抗争は続けられ、永享3年(1431)6月28日、筑前国怡土郡で敗死した。享年55。国清寺に葬る。法名ははじめ道雄、のち国清寺殿大先徳雄。
儒学・詩文をよくし、五山の禅僧と交流し、また、朝鮮と通交し大蔵経を求めて印行するなど文化的業績も著しい。