豊後国大友氏第12代。第10代・大友親世の長男。第8代・大友氏時の孫。通称は八郎。中務大輔。
応永30年(1423)7月、従兄(親世の兄・氏継の子)で先代当主の大友親著より家督を譲られる。一説にはこのときに豊後・筑後守護職も譲られたとするが、応永34年(1427)には豊後守護の地位に在ることが確実である。
当時の大友氏は8代・氏時のあとをその子・氏継が貞治3:正平19年(1364)に継いだが、南朝方についたためその弟の親世が応安元:正平23年(1368)に家督を継いで幕府から認められ、次代の当主は氏継の子・親著が応永23年(1416)に継承するという、氏継系と親世系の両統迭立が為されていたが、応永32年(1425)9月、親著の子・孝親が大内盛見の調略を受けて敵対したため、これを滅ぼして鎮圧した(三角畠の乱)。
永享3年(1431)6月、少弐満貞と結んで豊前・筑後守護、かつ幕府の筑前代官をも兼ねていた大内盛見を、筑前国で破って敗死させたことが専制将軍として恐れられた室町幕府6代将軍・足利義教の怒りを買い、翌永享4年(1432)10月に至って家督を孝親の弟であった大友親綱に譲らされ、豊後守護職も親綱に与えられた。
これに反感を募らせた持直は、大内盛見の死後にその家督をめぐって対立していた大内持世・持盛兄弟の抗争において、同じく家督と認められた持世に反発した持盛と結んだ。
永享5年(1433)4月に持盛が討たれた後も持直と持世の戦いは継続したが、永享8年(1436)6月に籠っていた豊後国海部郡の姫嶽が陥落し、その後は行方不明になったというが、文安2年(1445)1月4日に死去したと伝わる。
朝鮮貿易も行い、永享元年(1429)など7度に亘って朝鮮に使節を派遣している。