大内持世(おおうち・もちよ) 1394〜1441

周防・長門・豊前・石見・和泉・紀伊の6ヶ国の守護職を兼任した大内義弘の長男。通称は九郎。従四位上・刑部少輔・修理大夫・左京大夫。
父・義弘は応永6年(1399)の応永の乱で戦死し、家督はその遺志を継いだ弟の大内盛見が勝ち取ったが、その盛見も永享3年(1431)6月に筑前国怡土郡で大友持直少弐満貞・菊池兼朝らと戦って敗死した。
盛見は生前から次期家督は自分の子ではなく兄の義弘の子に継がせる意向を示しており、幕府にも持世に長門守護、持世の弟の持盛に周防守護を望んでいたが、次期家督を決めないまま没してしまったため、家中は紛糾して家督が容易に定まらず、これに介入した幕府は同年11月に持世に惣領職ならびに周防守護、持盛に長門守護と安芸国東西条の地を安堵した。
しかしこれを不服とした持盛は大友氏や従兄弟の大内満世と通じ、九州への出陣中の永享4年(1432)2月に豊前国において持世を襲撃。敗れた持世は石見国三隅へと逃れたが、国人領主らの支援を得て3月には周防国に復帰し、持盛・満世を豊前国へと奔らせた。
永享5年(1433)4月には幕府の公認を得て北九州へ出陣し、豊前国篠崎で持盛と戦って滅ぼし、同年8月には少弐満貞を筑前国秋月で敗死に追い込んだ。また、大友氏の内訌に介入して大友親綱を後援し、大友持直を圧迫した。
この頃までには周防・長門・豊前・筑前国の守護職を安堵されており、永享7年(1435)頃に北九州の戦局が再燃すると、大友持直を攻めて永享8年(1436)6月に豊後国姫嶽城を陥れ、肥前国に少弐氏の残党を平らげ、永享9年(1437)1月に周防国に凱旋した。
永享12年(1440)、室町幕府6代将軍・足利義教の命に応じて上洛。これと前後して少弐氏の宥免を幕府に願っている。
しかし嘉吉元年(1441)6月の嘉吉の変に際して、義教と同席していたために重傷を負い、逃れはしたものの7月28日に死去した。澄清寺に葬られ、法名は澄清寺殿道厳正弘大禅定門。
和歌をよくし、『新続古今和歌集』に3首、『新撰菟玖波集』に6句が入撰している。