大内義弘の子。大内持世の弟。新介を称す。
永享3年(1431)6月末、大内氏の当主であった叔父・大内盛見が筑前国で敗死すると、石見国邇摩郡の分郡守護職を継承する。同年10月には幕府より兄の持世が大内氏惣領ならびに周防守護に任じられ、持盛は長門守護に任じられるとともに安芸国東西条の地を安堵された。
しかし持盛は大内氏の惣領職を得られなかったことに反感を持っていたため持世とは不和であり、同じく家督の問題で分裂抗争を起こしていた豊後国の大友持直と結び、翌永享4年(1432)2月には九州に出陣していた持世を豊前国に襲撃し、石見国に逐った。
しかし石見国の国人領主らの支援を取り付けた持世はすぐさま逆襲に転じ、持盛は豊前国へと落ち延びた。
同年10月に将軍・足利義教から九州への出陣の許可を得た持世の軍勢によって、永享5年(1433)4月8日に豊前国篠崎で討ち取られた。