少弐貞頼(しょうに・さだより) 1372〜1404

筑前国少弐氏第9代当主。8代・少弐頼澄の子。少弐頼尚の孫。少弐冬資の甥。従五位下・筑後守。筑前守護。大宰少弐。号は本恵。
父の頼澄は南朝方に与し、永和4:天授4年(1378)に九州探題方の今川仲秋を討つため山鹿へ出陣中に没したが、貞頼は家督とその路線を継承したものと見え、翌年1月に南朝方と幕府(九州探題)方とが肥前国佐嘉の千布・蜷打一帯で激突した際には3千の兵を率いて参陣している。
嘉慶1:元中4年(1387)には懐柔のためか、九州探題の今川了俊が兼帯していた筑前守護職を幕府から与えられている。
応永2年(1395)閏7月に了俊が九州探題職を罷免され、翌応永3年(1396)4月頃に幕府から渋川満頼が新探題として九州に派遣されるとこれに反発し、肥後国の菊池武朝と結んで同年11月頃に挙兵した。
この報告を受けた幕府は大内義弘大友親世に九州探題への与力を命じ、大内義弘は少弐勢に対して弟の大内満弘・盛見を大将とする5千の軍勢を派遣したが、少弐勢は応永4年(1397)末頃に筑前国八田で大内満弘を討ち取った。
しかし応永5年(1398)末前後に義弘自ら兵を率いて下向してくると劣勢を強いられた。義弘は応永6年(1399)10月には兵を率いて上洛していることから、この頃には少弐氏の反九州探題的な行動は逼塞していたのであろう。
同年末、大内義弘が将軍・足利義満に叛いて敗死(応永の乱)したのちには貞頼が豊前守護にも任じられたようである。
しかし肥前国千葉氏の内訌に介入したことを機に渋川満頼との対立が再燃し、応永11年(1404)1月に満頼を大敗させ、同年5月にも交戦したが、6月20日に死去した。享年33。