九州探題・渋川満頼の子。通称は次郎。左近将監。
応永25年(1418)、父・満頼の辞職に伴い九州探題に任じられた。
翌応永26年(1419)6月の朝鮮軍の対馬侵攻(応永の外寇)に際しては、対馬島主の宗貞盛や筑前守護の少弐満貞らとともに対処したとされるが、具体的な行動は不詳である。同年中に義俊は九州探題として朝鮮国から通交を認められているが、これは義俊の功績ではなく、朝鮮国で国王が交代したことによる政策の方針転換のためであろうと思われる。
応永30年(1423)5月、筑前国の支配をめぐって競合していた少弐満貞と千葉胤鎮に博多を攻められ、肥前国山浦城に退いた。肥前国の勝尾城は渋川義俊によって同年に築かれたという伝承があるが、この山浦城への撤退以降ということになろう。
応永32年(1425)4月、再び少弐満貞や菊池兼朝と戦うが、少弐氏被官の筑紫教門に敗れて勝尾城を逐われ、以後、筑後国酒見城に蟄居した(一説には応永31年)。
自力では如何ともし難くなった義俊は、大内盛見に援助を要請。応永32年中に盛見は九州に侵攻して少弐氏らを鎮圧するが、義俊の衰退は覆うべくもなく、正長元年(1428)に従弟の渋川満直へ九州探題職の譲渡を余儀なくされる。
永享6年(1434)11月14日、同地で没した。享年35。
義俊の没落以後、対朝鮮交易も対馬の宗氏に主導権が移り、対外的にも対内的にも、渋川氏の九州探題としての声望は急速に失われていった。