大内弘世の七男。大内義弘・満弘・盛見らの弟。名を「ひろもち」とも読む。通称は新介。
応永6年(1399)11月からの応永の乱に際し、兄・義弘に従って東上して和泉国堺城の東郭を守ったが、落城に際して幕府軍に降って臣従した。幕府は義弘の旧領のうち豊前・石見・紀伊・和泉を没収して、周防・長門の2国のみの守護職を弘茂に安堵した。
しかし国許では兄の盛見が弘茂の相続に反発して決起したため、幕府よりこの鎮圧を命じられた。
この盛見追討は幕府の主導によって行われ、九州探題の渋川満頼や石見国の益田兼世らと呼応して周防・長門国の反乱勢力を鎮圧するものであったが、弘茂は翌応永7年(1400)7月に京都を発し、同月下旬には石見国に至ったが、間もなく盛見が豊後国大友氏を頼って逐電したため、ほとんど交戦もないまま周防・長門国を回復した。
その後は盛見の来襲に備えたが、翌応永8年(1401)12月26日に盛見が長門国に上陸すると国府の毘沙門堂で戦って敗れ、ついで盛山(下山:さがりやま)城に拠って戦ったが、同月29日に城を落とされて敗死した。法名は真休院日庵浄永。
弘茂の敗死後、幕府は兄弟の介(すけ)道通(四郎)を跡目に立てたが、この道通も応永10年(1403)に盛見によって竈戸(かまど)関にて滅ぼされた。