足利義持(あしかが・よしもち) 1386〜1428

室町幕府第4代征夷大将軍。在位期間は応永元年〜応永30年(1394〜1423)。
3代将軍・足利義満の子として、至徳3年(1386)2月12日に生まれる。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の娘・藤原慶子。しかし側室の子であったため、生後間もなく、父・義満の正室である日野業子を母として育てられた。
応永元年12月17日に元服して正五位・左馬頭に叙任されると同時に、義満から譲りを受けて4代将軍となる。その後の朝廷の官位は順調に進み、応永7年(1400)1月11日の幕府評定始に初めて着座し、同年12月19日には判始の儀を行っているが、義持は名目上の将軍にすぎず、幕府政治の実権は依然として義満が握り、自らの花押を据えた文書を発給して政務を執ることはなかった。しかも義満は義持の異母弟・義嗣(春日局の子)を寵愛し、応永15年(1408)3月の後小松天皇の北山第行幸に際しては京都警備を命じられて陪席を許されぬなど冷遇されていたため、義持は後継者たる地位も危ぶまれていた。
しかし直後の5月に義満が急死すると、幕府の長老・斯波義将らの計らいにより足利氏の家督を継ぎ、初めて幕府政治を主宰することとなった。これにあたって室町第から北山第に入ったが、やがて三条坊門の祖父・義詮の住居跡に新第を築き、応永16年(1409)10月、幕府をここに移した。
また、義満の没後直ちに義満に対して朝廷から太上法皇の尊号宣下があったが斯波義将の意見を容れて辞退し、義満の怒りに触れて相国寺の住持を罷免されていた大周周「を復帰させ、義満のために所領を没収されていた伏見宮栄仁親王に家領を返付し、義満が再開した明国との国交や貿易を応永26年(1419)7月に中止するなど、義満が行ったことをことごとく撤回している。これらの政策は義満への反発とも評されるが、公家化への傾向が強かった義満の政治路線を修正し、武家として政治を執行する幕府本来の姿への回帰を目指したものであろう。
しかし義持の初政には、義満の死を機として諸所に反抗の兆しが見られた。応永17年(1410)11月には旧南朝の後亀山上皇が吉野に出奔し、翌年には飛騨国司・姉小路尹綱、応永19年(1412)と応永21年(1414)から翌年にかけては伊勢国司・北畠満雅が挙兵した。いずれも南北両朝合体条件の不履行に起因するものである。
さらに応永23年(1416)10月に関東で起こった上杉禅秀の乱に際し、異母弟の義嗣が上杉禅秀と結んで義持に謀叛を企てていたことが発覚。義持は義嗣を捕えて相国寺林光院に監禁し、応永25年(1418)1月に討たせている。この乱において義持は鎌倉公方・足利持氏を支持したが、同時に持氏への警戒も強めることになり、応永29年(1422)に京都(幕府)扶持衆の山入与義が、翌年に宇都宮持綱や小栗満重が持氏によって討たれると緊張が高まった。義持は持氏征討の意向を固めたが、持氏が屈服したことによって一応の落着を見る。
また応永34年(1427)9月に播磨・備前・美作の守護であった赤松義則が没したのち、その領国のうち播磨国を召し上げて幕府の料国(直轄領)とした上で、赤松一族で義持の寵臣であった赤松持貞に預けようとしたため、これを不満とした義則の子・赤松満祐が一族を率いて下国するという事件が起こった。義持は直ちに赤松氏の討伐を命じたが、のちには管領・畠山満家らの尽力で和睦に至っている。
この間の応永30年3月に将軍職を子・義量に譲って4月25日に出家し、法名を道詮と称した。しかしその2年後の応永32年(1425)2月、義量は19歳の若さで病死。そのため、義持は法体のまま大御所として再び幕政の実権を行使した。
応永35年(=正長元年:1428)1月18日に没した。享年43。1月7日に風呂で尻(足とも)の腫れ物を掻き破って化膿し、それが原因となって17日に危篤になったという。法号は勝定院殿顕山道詮禅定門。位牌は相国寺勝定院に安置されたが、墓所は不明である。
室は日野資康の女・栄子。義満の室・日野康子の妹にあたる。義満が多くの側室をかかえて多数の子女をもうけたのに対して、義持の側室については知られておらず、したがって子供にも恵まれず、義量の死後は後嗣がなかった。
死の直前に至っても義持は後継者を定めなかったので、畠山満家以下の宿老が相議して義持の弟の4人(青蓮院義円・虎山永隆・大覚寺義昭・梶井義承)の中からくじをもって義円と定めた。のちの足利義教である。