上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱

応永23年(1416)10月2日の夜、鎌倉府に反感を持つ勢力を糾合した前関東管領・上杉禅秀(氏憲)が軍勢を率いて挙兵、鎌倉公方・足利持氏の居す鎌倉御所と関東管領・上杉憲基邸を急襲した。

この叛乱の遠因としては、長年に亘る山内(憲基の家系)・犬懸(禅秀の家系)の両上杉氏による関東管領職をめぐる対立や、持氏と持氏の叔父にあたる足利満隆の対立などが絡んでいるといわれるが、直接の原因は応永22年(1415)4月25日、鎌倉府政所評定所が禅秀の家人・越幡(おばた)六郎の病気欠勤を理由として六郎の所領を没収したことであろう。
禅秀はこの処分を不当であるとしてその場で抗議したが、聞き入れられなかった。それに反発した禅秀は病気と称して出仕を拒否し、5月2日に至って関東管領職を辞職した。
その直後の5月18日、持氏の推挙によって上杉憲基が関東管領職に補任されている。
この禅秀と持氏の不和は京都にも伝わった。これを聞いた足利義嗣は禅秀に密使を派遣し、「呼応して挙兵し、京都の将軍と鎌倉公方を討とう」という誘いをかけたのである。
義嗣は将軍・足利義持の弟であるが、兄との政争に敗れて将軍位に就けなかったことを不満としていた。そこで京都の幕府と関東における幕府機関である鎌倉府を自勢力に刷新しようと策したのである。
さらに密使は鎌倉の新御堂屋敷に居す足利満隆のもとにも派遣され、満隆の加担をも促した。そして密議の末に、禅秀と満隆は義嗣の策謀に同心することに決したのである。
禅秀は隠密裏のうちに下総国の千葉兼胤、上野国の岩松満純、下野国の那須資之や宇都宮持綱、常陸国の佐竹(山入)与義・小田治朝・大掾満幹、甲斐国の武田信満、陸奥国の篠川公方・足利満直といった鎌倉府に不満を抱く武家や豪族、国人領主らの糾合を図って来るべき挙兵に備えたのである。

応永23年10月2日の夜、禅秀方は鎌倉の禅秀邸宅と西御門宝寿院に分かれて結集、陣を張って態勢を整えたうえで挙兵に及んだ。このとき持氏は酔って眠っていたとされ、容易に禅秀の決起を信じなかったという。また憲基も邸宅での酒宴の最中に禅秀決起の報を受けたが、こちらもはじめは報告を疑うばかりで、数度の注進を受けてようやく事の重大さに気づいたという。
上杉禅秀の襲撃は成功し、不意を衝かれた持氏は憲基邸へ退避した。
この両勢の本格的な戦闘は4日になってからのことだったが、勢いに勝る禅秀方が持氏・憲基勢を打ち破り、敗れた持氏らはその日の夕刻に小田原へと逃れた。しかし禅秀方は追撃の手を緩めることなく、持氏らを箱根山へと追い込んだ。箱根山中で一夜を明かしたのち、持氏は駿河守護・今川範政を頼って駿河国瀬名の安楽寺に、上杉憲基とその弟・佐竹義憲らは遠く越後国にまで落ち延びた。

一方、京都においては10月下旬頃に義嗣の叛乱計画が露見し、捕えられている。この事態を重く見た幕府は即座に鎌倉府の支援を決め、今川範政や越後守護・上杉房方に鎌倉府救援のための出陣を命じたのである。
鎌倉府の総帥である持氏、その補佐役である憲基を逐って鎌倉府を掌握したかに見えた禅秀であったが、範政による切り崩し工作によって足利満直や武蔵国の江戸氏・豊島氏らが離反して幕府方に転じたため、戦況は悪化。これを好機と捉えた今川範政が同年の暮れより小田原に進軍したことにより、禅秀方は苦境に立たされることになったのである。
明けて応永24年(1417)1月5日、禅秀方は武蔵国世谷原で江戸・豊島氏らを撃退したが、9日には佐竹義憲・上杉房方らとの戦いに敗れて鎌倉へと逃げ帰っている。そして翌10日に禅秀、足利満隆・持仲(満隆の猶子、持氏の弟)らが鶴岡八幡宮の別当である雪ノ下御坊で自害したことによって、禅秀の叛乱劇は終結したのである。
上杉憲基は11日に、足利持氏は17日に鎌倉に復帰した。
また、もうひとりの首謀者である足利義嗣も応永25年(1418)1月24日、京都において死を賜っている。