足利満隆(あしかが・みつたか) ?〜1417

第2代鎌倉公方・足利氏満の子。三男か。第3代鎌倉公方・足利満兼の弟。他の兄弟に満直満貞がいるが、満直・満隆・満貞の3人は生年不詳である。
兄弟の満直・満貞は陸奥国に派遣されてそれぞれが篠川公方・稲村公方と称されていたが、満隆は鎌倉に在って新御堂殿と称された。
兄・満兼が応永16年(1409)7月に没したのち、その子・持氏が鎌倉公方の地位を継いだことに不満を持っていたが、応永17年(1410)8月に満隆謀叛の噂が流れたため、持氏が一時的に関東管領・上杉憲定の屋敷へ避難する騒ぎが生じた。この事件は憲定の仲介により、満隆が持氏の弟・持仲を養子にすることで和解した。
しかしその後、持氏への不満から関東管領職を辞任した上杉禅秀や、幕府将軍となった兄・足利義持に叛意を抱く足利義嗣に加担して京都ならびに鎌倉の制圧を画策し、密かに養子の持仲や篠川公方の足利満直、千葉兼胤・岩松満純・那須資之・武田信満・大掾満朝・山入与義・小田治朝らの大名を糾合して準備を進め、応永23年(1416)10月2日の夜、鎌倉西御門の宝寿院に布陣して兵を挙げた(上杉禅秀の乱)。
一時は持氏を駿河国に逐って鎌倉を制圧すると公方を称したが、持氏の支持を決めた幕府の命によって駿河守護・今川範政や越後守護・上杉房方が軍勢を率いて鎌倉に迫ると支えきれず、翌年1月10日に鶴岡八幡宮別当の雪ノ下御坊で持仲や禅秀らと共に自害した。