足利義嗣(あしかが・よしつぐ) 1394〜1418

室町幕府第3代将軍・足利義満の子。母は義満の側室・春日局(摂津能秀の女)。4代将軍・足利義持の異母弟。従四位下・左馬頭・左近衛中将。押小路大納言とも称された。
義嗣の生まれた年である応永元年(1394)の12月には異母兄である義持が将軍位に就いていたために長じて梶井門跡に入室したが、未だ強権を揮う父・義満からの偏愛を背景に、応永15年(1408)3月の後小松天皇の北山第行幸に際して異例である元服前の任官を果たし、4月には内裏に童殿上して親王の儀に准じて元服式を挙げたことなどから、義満の後継者と目されていた。
しかしその直後の5月に義満が急死すると、幕府や将軍家に隠然たる発言力を持つ斯波義将に擁立された義持の地位が確定したことによって義嗣の将軍就任は実現せず、のちには義持に室町第を逐われている。
こうした経緯から幕府に不満を募らせ、応永23年(1416)10月に前関東管領・上杉禅秀が鎌倉公方・足利持氏への謀叛(上杉禅秀の乱)を決行するにあたっては計画段階から参与し、禅秀勢が持氏を鎌倉から逐ったのちの10月30日には逐電して高尾の神護寺にて出家したが、野心の企てがあるとして捕えられて仁和寺、ついで相国寺に幽閉され、応永25年(1418)1月24日に義持の命令で殺された。25歳。法名は円修寺孝山道純。