宇都宮持綱(うつのみや・もちつな) 1395〜1423

下野国宇都宮氏の一族・武茂綱家の子。通称は弥三郎。右馬頭。
応永14年(1407)10月に嗣子に恵まれないまま病没した宇都宮満綱の娘婿となり、宗家にあたる宇都宮氏の家督を継承した。
応永21年(1414)末までには、幕府が鎌倉公方・足利持氏に対抗するため関東地方の豪族を組織した京都扶持衆のひとりとなっている。
応永23年(1416)10月に前関東管領の上杉禅秀が持氏に反発して兵を挙げた上杉禅秀の乱に際しては、当初は京都扶持衆の立場から反持氏方であったようだが、のちに幕府より禅秀の討伐を命じられた駿河守護・今川範政の斡旋を受け、持氏・幕府方に転じた。
応永24年(1417)8月には禅秀の後任として上総守護に推され、このときは足利持氏の反対があって実現しなかったが、翌応永25年(1418)9月15日に補任されている。
応永29年(1422)8月、常陸国小栗城主の小栗満重が足利持氏に対して叛乱の兵を挙げるとこれに与し、陥落させた下総国結城城などを拠点として、持氏より差し下された軍勢と戦った。
しかし翌応永30年(1423)5月より持氏自ら討伐に乗り出すと劣勢を強いられ、同年8月に小栗城が陥落するに及んで落ち延びたが追討を受け、南奥州に逃れる途次の9日に下野国塩谷荘幸賀郷で自害した。享年29。享年を28、応永3年(1396)生まれとする説もある。