明徳(めいとく)の乱

山名氏は山名時氏足利尊氏に従って頭角を上げ、建武4:延元2年(1337)7月に伯耆守護に任じられてより着実に声望を高め、時氏が応安4:建徳2年(1371)に没したあとは嫡男の師義が継ぎ、師義の没後は時氏の五男で師義の弟にあたる山名時義が惣領となり、その晩年には一族で丹波・丹後・因幡・伯耆・美作・但馬・和泉・紀伊・備後・隠岐・出雲の11ヶ国の守護職を保有して「六分一殿」と称されるほどの権勢を揮うに至っていた。
そしてその時義が嘉慶3(=康応元):元中6年(1389)5月に死没すると、時義の兄である山名氏清とその娘婿・山名満幸と、時義の子である山名時熙と時煕に味方する山名氏幸(満幸の兄)との間で、惣領の地位をめぐる対立が表面化した。氏清と満幸は、師義の死後に弟の時義、ついでその子の時煕が惣領となったことに不満を持ち、翌康応2年(=明徳元):元中7年(1390)に至ってこれを将軍・足利義満に訴えたのである。
かねてより強大化した山名一族を警戒していた義満は、この内訌を利用してその勢力を削減することを目論み、同年3月、生前の時義が武威を誇って上意に背くふるまいが多かったという理由で、山名氏庶流の氏清・満幸に、嫡流である時熙・氏幸を追討させたのである。
この結果、時熙・氏幸は没落し、氏清は丹波・和泉に加えて時煕が任じられていた但馬守護を兼ね、満幸は丹後・和泉に氏幸の伯耆・隠岐の守護職を付加され、その権勢は一族の中でも抜きん出るところとなった。

しかし義満の計略はこれで終わらなかった。翌明徳2:元中8年(1391)、義満は満幸が仙洞(上皇)御領の出雲国横田荘を押領したことを罪状として満幸を京都から追放するとともに、時熙・氏幸を赦免したのである。
11月に丹波国に退去した満幸は、これを義満が山名一族を滅ぼすために仕組んだ謀略と見て取り、氏清を説得して共に挙兵することの同意を取り付け、満幸は丹波路から、氏清は和泉国から宇治八幡より進攻するという計画が立てられた。また、氏清は兄で紀伊守護の山名義理らをも引き込んでいる。
この山名氏挙兵が伝わると洛中は騒然となり、幕府においても対応を決めるための評定が持たれた。評定は紛糾したが、義満の「今回(満幸・氏清らを)宥めて抑えたとしても、いずれ重ねていろいろな要求をしてくるだろう。そのときに討つのも今討つのも、早い遅いの違いこそあれども、同じことだ。それならば当家の運と山名一家の運とを天の照覧に任せよう」という趣旨の発言によって雌雄を決することになったという。
これを受けて細川・京極・斯波・大内・一色らの諸大名は軍勢を調え、赦免を受けた時煕も幕府軍として参陣した。この幕府軍は京都北西部の内野(平安京大内裏の跡)を囲むように布陣し、12月30日に両軍はこの内野で激突したのである。
この内野合戦は「南は四条、北は一条、東は西洞院・油小路、西は梅津・桂までの四方4、5里の間は人馬の死骸が満ち」るほど双方に多数の死傷者を出したと伝わるが、繰り広げられた激戦のなかで氏清が一色詮範父子に討たれて戦死、満幸は山陰へと敗走したことでその日のうちに幕府軍の勝利に決着したのである。

明けて明徳3:元中9年(1392)1月4日の論功行賞において、11ヶ国あった山名氏の守護領国は幕府軍として従軍した時煕に但馬、氏幸に伯耆が、そして氏清・満幸方に与するも許された山名氏家に因幡の守護職が留められるのみとなり、他の守護職は細川・一色・京極・赤松、そして大内氏に恩賞として与えられた。とりわけ内野合戦で大功のあった大内義弘には京都に近い和泉・紀伊両国の守護職が与えられ、従前より任じられていた周防・長門・豊前・石見と併せて6ヶ国の守護に躍進することになったのである。
また、氏清・満幸方であったが京都への出陣が間に合わなかった義理は、大内義弘の追討を受けて紀伊国の興国寺で子弟一族とともに出家し、逃亡していた満幸も応永2年(1395)3月10日、京都五条坊門高倉の宿舎で京極高詮に討たれている。
この明徳の乱によって山名氏の勢力は大きく削がれ、その反面において将軍・足利義満の権威は一層強固なものとなったのである。