山名師義(やまな・もろよし) 1328〜1376

丹波・因幡・伯耆国の守護を兼ねた山名時氏の嫡男。初名は師氏。左馬権頭・右衛門佐。丹後・但馬・伯耆守護。
貞和3:正平2年(1347)11月、父・時氏とともに摂津国の住吉や天王寺で南朝方の将・楠木正行率いる軍勢と戦う(住吉・天王寺の合戦)など、北朝を擁する足利尊氏に属して功があった。しかし尊氏に重用された京極高氏(佐々木導誉)と若狭国の所領をめぐって反目したことなどもあって、足利尊氏・直義兄弟の分裂闘争(観応の擾乱)を契機として観応2:正平6年(1351)1月に直義・南朝方に転じ、直義の死没後にはその養子・足利直冬とも結んで北朝・幕府に抗した。師義はかつて山名氏の分国であった出雲国の制圧に尽力したようである。
山名氏は以後約10年間に亘って山陰地方に勢力を扶持し、師義も文和2:正平8年(1353)6月と文和4:正平10年(1355)2月には時氏に従って南朝方として畿内に侵攻して幕府を脅かしているが、しだいに直冬の威勢が衰退し、中央で足利政権が安定してくると貞治2:正平18年(1363)9月、それまでに実効支配していた国の安堵を条件に2代将軍・足利義詮に帰順し、翌年3月までには師義は丹後守護に任じられている。これと前後して父の時氏は丹波・因幡・伯耆国、弟の義理は美作国の守護に補任され、山名一族で中国地方の5ヶ国の守護職を安堵された。
応安3:建徳元年(1370)12月に時氏より山名氏惣領の家督を譲られ、時氏没後の応安4:建徳2年(1371)2月に伯耆守護職を幕府より安堵されているが、先に任じられていた丹後守護への在職は不詳となっている。また、応安5:文中元年(1372)12月までに守護に任じられた但馬国は、戦国期には山名氏惣領家の本国となっている。
永和2:天授2年(1376)3月11日に没した。享年49。法名は道興。