千葉胤盛(ちば・たねもり) ?〜1497?

肥前国の国人領主。千葉胤紹の三男。千葉胤朝の弟。千葉胤将の兄。文書での初見は文明8年(1476)である。
父の胤紹は肥前国千葉氏の惣領・千葉胤鎮の弟で、胤紹の子である胤朝・胤盛・胤将は庶流ということになるが、兄の胤朝が文明元年(1469)8月までには惣領家に入嗣して惣領となると、翌文明2年(1470)に家臣団の対立から、三弟の胤将が擁立されて胤朝と戦った。胤朝は大内政弘、胤将は少弐政資の後援を受けたが、同年12月に胤将が敗れて没落すると、文明8年(1476)までには今度は胤盛が胤朝に対抗して挙兵した。
胤盛も少弐氏の後援を受けており、この兄弟相剋は大内氏と少弐氏の代理戦争であった。挙兵後しばらくは胤盛方が優勢だったようだが、応仁の乱が終息し、畿内に出征していた大内政弘が帰国すると、大内氏を後ろ楯としていた胤朝が勢威を取り戻し、文明12年(1480)頃には胤朝と和睦したようである。
ところが文明18年(1486)10月、おそらくは少弐氏領に潜伏していた胤将が胤朝を千葉城に襲って討つと、胤盛・胤将を後援していた少弐政資は、自身の弟を胤朝の娘に娶わせて入嗣させ、胤資と名乗らせた。これは独立領主であった千葉氏が事実上少弐氏によって被官(一門衆)化されたことを意味し、これに反発した胤盛は、少弐氏と敵対していた大内氏に鞍替えした。
その後は大内陣営として千葉胤資・胤将らと戦っているが、明応元年(1492)に胤将を攻め破り、胤資と和平を結んだという。
胤盛は明応6年(1497)1月に肥前国鎮守の河上社に安堵状を発給しているが、これが現存する胤盛最後の書状とされており、同年内に没したと目されている。