千葉胤鎮(ちば・たねしげ) 1400?〜1455

肥前国の国人領主。肥前国千葉氏。千葉胤基の子。鎌倉時代の蒙古襲来に際し、警固のため九州に在住した千葉宗胤の玄孫にあたり、肥前国小城郡を勢力基盤とした。千葉介。肥前国小城郡千葉城(別称を牛頭城、祇園城)主。
応永24年(1417)頃に家督を相続。
応永30年(1423)5月、少弐満貞に属して筑前国博多で九州探題の渋川義俊と戦い、応永32年(1425)4月にも少弐氏に従軍し、渋川義俊を博多から追放した。
永享6年(1434)1月、前年に敗死した少弐満貞の弟である横岳頼房に協力し、九州探題の渋川満直(義俊の従兄弟)と肥前国神埼で合戦して満直を討った。
永享9年(1437)、家宰の中村胤宣が大内氏と通謀し、少弐氏に与した胤鎮を廃してその弟の胤紹の擁立を企て、翌永享10年(1438)2月には放逐されている。その後は潜伏して行方をくらませたらしく、中村胤宣は永享11年(1439)1月に幕府から胤鎮の探索を命じられている。少弐氏は幕府の出先機関である九州探題に敵対した勢力であり、その少弐氏に与同していた胤鎮も反抗勢力と見なされたのであろう。
嘉吉元年(1441)10月、少弐教頼は肥前国に侵攻した大内教弘を迎撃しているが、少弐氏に与した「小城郡郡士」が千葉胤鎮の勢とも目されており、12月には小城郡の下隈で勝利した。
文安元年(1444)の冬頃には胤紹に対して挙兵し、翌文安2年(1445)8月に佐嘉郡川上山田で胤紹父子を討って当主の地位に返り咲いた。なお、この戦いでは胤紹に与して肥前国今川氏も参戦していたが、胤鎮勢はこの今川国治父子らをも討ち取り、その所領であった佐嘉・杵島郡を併合している。これにより小城・佐嘉・杵島の3郡を領する大身となり、享徳年間(1452〜55)の頃には肥前国主と仰がれるようになったという。
康正元年(1455)9月25日に病死したという。『鎮西要略』には「五十六歳を以って卒」とあり、生年は応永7年(1400)か。