伊達成実(だて・しげざね) 1568〜1646

伊達一族。伊達実元の嫡男。母は伊達晴宗の娘。系図上では伊達輝宗の従弟であるが、輝宗の子・政宗と同世代で、同時代に活躍した武将。幼名は時宗丸。通称は藤五郎。兵部・安房守。
天正12年(1584)頃に父・実元より家督を譲られ、陸奥国信夫郡大森城主となる。
天正13年(1585)10月8日に伊達輝宗が二本松義継に拉致されて死を遂げた事件の経緯は不明瞭であるが、成実はその現場に居合わせており、一部始終を見届けた数少ない人物のひとりである。
その報復戦ともいうべき同年11月の人取橋の合戦に参陣し、二本松氏が天正14年(1586)7月に降伏した際にはその居城である二本松城の受け取りの任にあたり、同年中には片倉景綱の後任として二本松城主となった。
天正16年(1588)の窪田の合戦、17年(1589)の摺上原の合戦などに功があり、天正18年(1590)の小田原征伐に政宗が出陣するに際し、当時の政宗が居城としていた会津黒川城の留守居および伊達領国の総指揮を任されるなど、政宗に重用された。また、小田原征伐直後の葛西・大崎一揆の鎮定にあたっては、政宗が裏で一揆を扇動しているという疑いが持たれていたため、成実が人質となって一揆鎮定軍の大将である蒲生氏郷の元へと赴いている。
天正19年(1591)、伊達領の再編にともなって伊具郡角田城主となった。
文禄2年(1593)、政宗のもとから出奔して高野山に入ったが(この出奔の年次、出奔先には異説がある)、のち帰参して慶長7年(1602)に亘理郡亘理城主となった。
寛永20年(1643)での知行高は2万石。
正保3年(1646)に没した。享年79。
政宗の一代を記した『成実記』(『伊達日記』『政宗記』とも称す)の著述がある。