出羽国米沢城主・伊達政宗は天正15年(1587)頃より陸奥国玉造郡名生城主の大崎義隆家中の内紛に介入し、一方の当事者である大崎氏重臣・氏家吉継の求めに応じて天正16年(1588)1月、浜田景隆を陣代に、留守政景と泉田重光を大将に任じて5千の兵を率いらせて大崎領に送り込んだ。しかし留守政景の岳父にあたる黒川晴氏が敵対したこと、両大将である留守と泉田の連携がうまくいかなかったことなどもあって、この出兵は失敗に終わる(中新田の合戦)。
この大崎氏の内紛に、出羽国山形城主・最上義光が大崎氏を支援する動きを見せていたため、政宗はこの最上勢への警戒のための兵をも割かねばならず、さらには同年5月、離反した小手森城主・石川弾正が陸奥国行方郡小高城主の相馬義胤と結び、妻の実家である陸奥国田村郡三春城への侵攻を企てたため政宗は出兵してこれを滅ぼしているが、この政宗の兵繰りに苦しい状況を衝いて、陸奥国会津郡黒川城主の蘆名盛重(のちの佐竹義広)とその実父・佐竹義重が須賀川経由で安積郡に向けて侵攻した。その標的は、一時は蘆名氏に属していたが同年4月に伊達氏へと寝返った陸奥国安達郡小浜城主・大内定綱だったとされる。
このとき政宗は、未だ緊張の続く大崎・最上・相馬といった周辺の勢力に対応するために要所を固めておく必要があり、動員できた兵力は6百ほどであった。これに対して蘆名・佐竹連合軍は、伊達氏に圧迫されていた白川氏や岩城氏などの合力を得たため、その勢は4千ほどにもなったという。
6月上旬頃より両軍は阿武隈川支流の逢瀬川を挟んで相対し、川の北側に陣した伊達軍は川の前面に堀を掘らせて窪田山王館を本陣とし、郡山城にも兵を入れて連合軍の侵攻を牽制した。連合軍もまた郡山と窪田の間に堀を作って砦を設けて戦機を窺っていたため、双方とも睨み合いの対陣となった。
戦況が動いたのは7月4日、伊達勢の伊達成実隊と蘆名勢の新国上総隊の衝突から、両軍が打って出る激戦となった。その日の戦いは午前8時より午後2時頃までの長時間の戦闘となり、伊達勢では首級2百を取り、70人ほどが討たれたというが、規模の大きな戦いがあったのはこの日だけで、その後は再び両軍が対峙する持久戦となった。
しかし、連合軍の内部では同年5月に蘆名領の猪苗代城において蘆名氏重臣の猪苗代盛国と盛胤の父子が分裂抗争を起こしているという不安要素も抱えており、政宗の縁戚でもある岩城常隆と石川昭光が間に入って講和を斡旋したため、和議が結ばれることになり、7月21日に陣払いとなった。
この戦いを、安積表の合戦ともいう。
また、陣払いのその日、政宗の母・保春院(最上義光の妹)の取り計らいにより、最上・大崎・黒川氏との和睦も成立している。