蜂須賀至鎮(はちすか・よししげ) 1586〜1620

蜂須賀家政の子。幼名は千松丸。豊雄・忠吉と称す。長門守・阿波守。
天正18年(1590)の小田原征伐に従軍。
慶長5年(1600)、徳川家康の養女(小笠原秀政の娘)・氏姫を妻とし、徳川氏と縁戚関係を結んだ。
同年の関ヶ原の役では東軍に味方し、主力同士の決戦となった関ヶ原の合戦では野上に布陣して南宮山の西軍に備えた。
戦後、父・家政の致仕により家督を継ぎ、阿波国17万6千石の所領を襲封。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では大野治房・薄田兼相塙直之らと戦って功を挙げ、翌年(1615)の夏の陣では和泉国に布陣した。
戦後、その戦功で淡路国7万石を加増されて25万7千石の太守となるが、元和6年(1620)2月26日、35歳の若さで父に先立って没した。法名は心岳義伝峻徳院。