畠山持永(はたけやま・もちなが) ?〜1441

畠山満家の子。畠山持国の異母弟。畠山持富の同母兄。左馬助。
永享5年(1433)、父・満家の死没後の畠山氏家督と守護職は異母兄の持国が継いだが、持国が結城合戦への出陣を拒んだことなどから将軍・足利義教の怒りを買うことになると、これを危惧した家臣の遊佐勘解由左衛門尉・斎藤因幡入道らに擁立され、永享13年(=嘉吉元年:1441)に畠山氏家督と河内・越中・紀伊国の守護職を継承した。
同年6月24日、義教らとともに京都西洞院の赤松邸に招かれ、刺客に襲われたが無事だったようである(嘉吉の変)。しかしこの嘉吉の変で義教が横死し、その後の恩赦で以前に義教の勘気に触れて更迭された者が復権する動きが顕著となると、前家督で未だ河内国に在った持国との反目が危惧されるようになり、持国の言い分によれば、持永の母や遊佐・斎藤は持国を亡き者にしようとして刺客を送ったという。
この持国との内訌に、家臣団の多くや同母弟・持富らは持国方となって河内国に下向するところとなり、形勢不利となった持永は遊佐・斎藤らとともに7月に京都から守護領国である越中国へと出奔した。おそらくは遊佐・斎藤らに同行を強要されたものと思われる。
しかし越中国の武士らも持国方となっていたため入国できず、8月に越中国で持国方の軍勢に攻められて生害したとも、閏9月5日に摂津国で高野聖姿に身をやつして逃亡していたところを発見されて討たれたとも伝わる。