平岩親吉(ひらいわ・ちかよし) 1542〜1611

徳川家臣。平岩親重の子。母は天野貞親の女。通称は七之助。主計頭・従五位下。姓は物部氏。
天文16年(1547)8月、松平竹千代(のちの徳川家康)が今川氏のもとに人質として差し出されることになったときに随従した。このとき親吉は6歳で、家康と同い年であった。しかし一行はその途次で三河国田原城主の戸田康光に襲われて尾張国の織田信秀のもとに護送され、このときにほとんどの従者が帰されたが、親吉(一説には天野三之助)と阿部正勝のみが引き続き家康に同伴している。
この2年後の天文18年(1549)11月に今川氏と織田氏の間で人質の交換が行われた際に家康が今川氏に引き渡されることになったが、このときも親吉は随行した。
家康が今川氏の崩壊後に自立したのちも側近として侍し、永禄6年(1563)の三河国一向一揆に際しても、自身は浄土真宗の信者であったが一揆方には加担せず、家康方として奮戦している。
これらの経歴より家康からの信頼は厚く、のちに武略度量の人として家康の長男・松平信康の傅人(養育役)となる。
天正7年(1579)の信康の失脚後は謹慎していたが、のちに家康の要請を受けて再出仕した。
天正10年(1582)に家康が甲斐国と信濃半国を所領に加えると、甲斐の郡代を命じられた。
天正13年(1585)11月、徳川氏重臣の石川数正羽柴秀吉のもとに出奔したとき、家康は陣法の機密が漏洩することを危惧して甲州武田流に改めたが、このとき親吉は家康の命を受けて陣法などの調査にあたった。
軍事面の功績においては、同年の上田城の戦い、天正18年(1590)の小田原征伐などに参戦した。特にこの小田原征伐の武蔵国岩付城攻撃に功があり、同年9月の徳川氏関東入国に際しては上野国厩橋城3万3千石を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役にも従軍し、翌6年(1601)には甲斐国への加増転封の沙汰を受け、甲府(府中)城6万3千石の領主となる。
慶長8年(1603)、家康の九男・義直(義利)が甲斐国を与えられたときその家老に付され、義直に代わって国政を執った。
慶長12年(1607)閏4月に義直が尾張国に移ると親吉も従い、尾張国犬山城主として12万3千石を領す。
慶長16年(1611)12月30日、70歳で没した。法名は越翁休岳平田院。