織田家臣。初名は清秀、通称を五郎左衛門。妻は織田信長の鉄砲の師とされる橋本一巴の姉。監物・中務丞。
織田家中において、主に財政面を担当した。天文12年(1543)5月には織田信秀の名代として上洛し、内裏築地修理の費用として4千貫を献じている。その帰途に石山本願寺に立ち寄って(本願寺)証如と面会し、招かれた宴席では「一段大酒(酒豪)」であったという。
天文15年(1546)の信秀の嫡子・信長の元服式や翌年の初陣などに立ち会い、信秀が那古野城を信長に与えたとき、林秀貞(通勝)とともに家老として信長に仕え、少年〜青年時代の信長の傅役(養育係)となった。
信秀と美濃国の斎藤道三はたびたび交戦に及んで対立したが、和睦案として天文17年(1548)に信長に道三の娘・帰蝶を娶わせることになったのも政秀の献策という。
信秀の没後も信長に近侍したが、奇行の多かった信長を憂えて諫めるも容れられず、天文22年(1553)閏1月13日、尾張国春日井郡志賀村に退き、僧の沢彦に後事を託して諫死した。一説には、信長が政秀の長男・五郎右衛門の駿馬を所望したが五郎右衛門はこれを断ったために関係が悪化し、そのために自害したともいう。享年62。法名は政秀寺殿功案宗忠大居士。
その後、信長は政秀の墓所として春日井郡小木村に政秀寺(清秀寺)を建立した。この政秀寺は小牧・長久手の合戦で焼失したが、のちに清洲に再建され、慶長15年(1610)に名古屋に移転した。
五郎右衛門、監物、甚左衛門(汎秀)の息男があり、娘は信長の弟・織田長益の妻となった。