織田信長(おだ・のぶなが) 1534〜1582

天文3年(1534)5月、尾張国勝幡城に生まれる。父は織田信秀。幼名は吉法師。通称は三郎。上総介・弾正忠・参議・権大納言・右大将・内大臣・正二位・右大臣。
天文15年(1546)、13歳で元服。初陣は14歳のときと伝わる。
天文17年(1548)頃、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)を娶る。
天文20年(1551)、父・信秀の死により家督を相続する(年に異説あり)。
少年時代は奇怪と思われる行動が多く、「うつけ者」と言われていたことは有名。このため、家臣や一族に反目するものも多かったが、平手政秀の諫死で改心したといわれる。
弘治元年(1555)4月に清洲城の織田信友を、永禄2年(1556)の春には岩倉城の織田信賢を攻略して織田一族と尾張一国を統一、この段階において強力な家臣団の養成が進んだ。
永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で「東海一の弓取り」と呼ばれた駿河国の今川義元を討ち取り、永禄5年(1562)に徳川家康と同盟を結んで三河方面からの不安を取り除き、美濃経略に取り掛かった。
永禄6年(1563)に小牧城を築き、永禄9年(1566)には美濃攻めの要衝として墨俣にも築城、永禄10年(1567)には斎藤氏を滅ぼし(稲葉山城の戦い:その2)美濃国を分国化、井ノ口の地を「岐阜」と改めてここに本拠を移した。同時に「天下布武」の印判の使用を始め、天下統一を目指すことを知らしめた。
永禄11年(1568)9月、助勢を求めてきた足利義昭を奉じて上洛し、たちまちのうちに畿内の中枢部を制圧して(箕作城の戦い(信長上洛戦))義昭を将軍位に就け、政治上の実権を握った。しかし義昭は間もなく反信長の行動を見せ始め、朝倉義景浅井長政らの諸大名、石山本願寺に反信長戦線の結成を呼びかけた。
こうした義昭の動きに対して信長は元亀元年(1570)、義昭の権力を奪うとともに姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破るなど、各地の反信長勢力と忙しく応対したが、9月にはかねてより不仲であった石山本願寺と交戦に至り(石山合戦)、これに呼応して挙兵した伊勢長島一向一揆には敗れるなど、苦難が続いた。
元亀2年(1571)には浅井・朝倉氏に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにした。
元亀3年(1572)、最大の反信長勢力である甲斐国の武田信玄が西上を開始し、遠江国三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破り(三方ヶ原の合戦)、翌年(1573)には足利義昭も挙兵、苦境に陥った。しかし信玄は病死、信長はこの機を逃さず義昭を追放し、室町幕府を実質的に滅亡させた(足利義昭の乱)。
ついで朝倉氏、浅井氏を滅ぼし(朝倉征伐:その2小谷城の戦い:その2)、天正2年(1574)には伊勢長島一向一揆:その3、翌3年(1575)には越前国の一向一揆を討伐、さらには長篠の合戦で武田氏に壊滅的な打撃を与えた。また、石山本願寺とも一時的なものとはいえ、講和を成立させた。
またこの年、織田家の家督と尾張・美濃の領国を嫡子の信忠に譲る。信長自身は従三位権大納言・右近衛権少将に叙任し、室町幕府に代わる新政権の樹立へ向けて乗り出した。
こうして当面の敵を各個撃破して小康を得ると天正4年(1576)に近江国安土に築城を開始、ここに本拠を移した。
天下統一はここに新段階を迎えたが、同年に石山本願寺が再挙し、西国の雄・毛利氏がこれを支援して反信長の立場を鮮明にした。そこで信長は本願寺を攻撃する一方で羽柴秀吉を播磨国に、明智光秀を丹波国に派遣し、本格的な中国経略に着手した。
松永久秀別所長治荒木村重などの離反などで中国経略はやや頓挫したが、天正8年(1580)には毛利氏と石山本願寺の分断に成功、10年間に亘って反抗を続けた本願寺を屈服させた。
天正9年(1581)2月には京都で盛大な馬揃えを挙行してその威風を天下に示し、天正10年(1582)には甲斐・信濃国に侵攻して武田氏を滅亡させた(武田征伐)。
ついで四国侵攻を計画の折、毛利氏と対峙する秀吉の要請によって中国路へ出陣しようとしていたそのとき、京都本能寺において明智光秀の急襲を受け、ここで果てた(本能寺の変)。天正10年(1582)6月2日黎明のことで、49歳であった。法号は総見院泰巌安公。
敵対した者や勢力を容赦なく殲滅する苛烈さを恐れられる反面で徹底した合理主義者であり、人材の登用についても有能な者は引き立て、働きを成さないものは家格が高くとも召し放った。軍事面においても、当時の常識を破る三間半槍や鉄砲の集団使用などを考案し、軍備の増強を図った。
流通や経済の振興政策としては、関所を撤廃すると共に、城下町に楽市・楽座制を導入、検地差出を徴し、堺など都市と流通を掌握するなどの統一政策を布き、既存の中世権門に大打撃を与えた。しかし柴田勝家に越前を与えたものの全権委任はしていないなど、その政治体制は信長個人の専制支配の色が濃く、政権の性格としては戦国大名から大きく脱皮することはなかった。それだけに政権も分国支配も、信長の死とともに瓦解した。
南蛮文化やキリスト教の布教には好意的に臨んだが、仏教などの既存権力には容赦なく弾圧を加えた。常に新しいものを望み、古く怠惰したものを嫌悪したためとされる。ためかキリスト教を布教することは認めたが、信長自身はキリストの教えは信じなかったという。
なお、信長に会見した宣教師・ルイス=フロイスはその著書『日本史』に「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である」とその容貌を伝えている。また「正義や慈悲の業を楽しみ、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはない。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠まわしな言い方を嫌う」とも記されている。