浅井長政(あさい・ながまさ) 1545〜1573

近江国の戦国大名。祖父は浅井亮政、父は浅井久政。幼名は猿夜叉。通称は新九郎、初名は賢政。備前守。小谷城主。
父・久政の代の浅井氏は六角氏に圧されて屈し、雌伏を強いられていた。初名「賢政」の「賢」の字は、永禄2年(1559)の元服の際に六角義賢よりなかば強制的に与えられたものとされ、正室も六角氏と縁を繋ぐために六角氏重臣・平井定武の女を娶らされたという。
しかし、この元服直後の4月には妻を離別して六角氏に抗する意思を鮮明にし、永禄3年(1560)8月の野良田表の合戦で六角義賢を破り、その圧迫から脱した。
同年10月頃、久政の隠退により家督を譲られた。この久政隠退は、重臣たちの強要によるものと伝わる。また、永禄4年(1561)5月頃には「賢政」の名を棄てて「長政」と改名しているが、この改名は織田信長の偏諱を受けたものとする見解がある。
この信長との関係において、長政は信長の妹・市姫を妻に迎えているが、その時期には諸説あって定かではないが、『東浅井郡志』では永禄4年としている。
永禄6年(1563)に起こった六角氏の内訌(観音寺騒動)に際しては反乱諸氏を支援して愛知川まで軍勢を出している。
永禄11年(1568)頃にはその勢力圏は北近江3郡(伊香・浅井・坂田)に加えて犬上・愛智・高島の3郡にも拡大、近江国のほぼ全域を支配下に治め、『湖北の驍将』と呼ばれた。
支城在番制、同名被官層への直恩給付、与力化などの新しい家臣団編成を行い、さらには流通経済の発展に対応した商業政策を取るなど、領国支配を堅固なものとする施策をうちだした。
その一方で、外交面においても尾張・美濃の両国を平定した織田信長と友好関係を築き、信長が足利義昭を奉じて上洛するにあたっては、近江国の大半を制圧する勢力を以て援助した。
しかし元亀元年(1570)4月、信長が越前国の朝倉義景を攻めるに及んで、父祖以来続いていた朝倉家との盟約を重んじて、信長に叛く(朝倉征伐(金ヶ崎の退き口))。このときは朝倉領に侵攻した織田軍を退けたが、同年6月に織田・徳川連合軍と姉川に戦って敗れた(姉川の合戦)。
その後も朝倉義景や石山本願寺、三好三人衆らと結んで、約3年間にわたって信長に対する反撃戦を繰り返すも、ついには天正元年(1573)8月、居城の小谷城に攻め込まれ、お市の方と3人の娘を信長に渡したあとで、城と運命を共にした(小谷城の戦い:その2)。8月28日、29歳。法号は養源院天英宗清。
遺された娘の長女・茶々は長じて羽柴秀吉の側室・淀殿に、二女の初子は京極高次の妻に、三女の達子は徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の妻となった。
なお、長政には寛永9年(1632)、従二位・権中納言が追贈されている。