徳川秀忠(とくがわ・ひでただ) 1579〜1632

江戸幕府2代征夷大将軍。在位期間は慶長10年〜元和9年(1605〜1623)。従一位・侍従・少将・参議・右近衛権中将・権中納言・右近衛大将・権大納言・内大臣・右大臣・太政大臣。
徳川家康の三男。天正7年(1579)4月7日に生まれる。幼名は長松・竹千代。
家康の嫡男である松平信康が先に死に、二男の秀康羽柴秀吉、ついで結城晴朝の養子となったため、継嗣の座についた。
天正18年(1590)1月に上洛し、秀吉に拝謁して元服。秀吉から一字を与えられて秀忠と名乗った。また、文禄4年(1595)には羽柴秀吉の養女として浅井長政の三女・徳子(別称を達子・於江とも)を娶っている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、会津上杉征伐の先鋒隊として会津へ向けて進軍したが、その道中の下野国小山にて石田三成挙兵の報を聞き、畿内へ向けて中山道を西上した。その途中、石田方に与した真田昌幸幸村父子の籠もる信濃国上田城を攻撃したが陥落させることができず、結果、8日間に亘って釘付けにされたために美濃国関ヶ原の合戦に参陣することができなかった(上田城の戦い:その2)。そのためしばらくの間、家康は対面を許さなかったという。このことが災いして、継嗣として秀康を推す動きもあったが、大久保忠隣らの斡旋で事なきを得たという。
慶長10年(1605)4月16日、家康より譲られて征夷大将軍となる。秀忠の将軍就任後も、なお家康が大御所として実権を握り、『武家諸法度』など重要な政策は家康の意図によるものが多い。また、慶長14年(1609)には慶長条約(己酉約定)を締結し、慶長の役以来断交していた朝鮮国との外交を回復している。
慶長19年(1614)からの大坂冬の陣夏の陣においては家康と共に出陣して豊臣氏を滅ぼし、名実共に武家の頂点に立った。
穏健篤実な人柄であったというが政事には厳格で、福島正則ら41の大名の改易を断行したことをはじめとして、中国船以外の外国船来航を長崎・平戸に限定し、キリスト教の弾圧を強化するなどして武家の統制に務めている。また元和6年(1620)に娘・和子を入内させたのち、寛永4年(1627)の紫衣事件を通して後水尾天皇を退位に追い込んで孫にあたる幼女(のちの明正天皇)を即位させるなどして朝廷への介入にも着手し、幕府の権力基盤を強化した。
元和9年(1623)7月27日、長男・徳川家光に将軍職を譲り、大御所としてこれを後見した。
寛永9年(1632)1月24日に没した。享年54。