天正20年(=文禄元年:1592)より交戦(文禄の役)に及んだ日本と朝鮮・明国の講和を進める小西行長の家臣・内藤如安が北京入りして必死の弁明に努めた結果、明国朝廷は国使を派遣することに決定した。
文禄5年(=慶長元年:1596)6月15日、明国の冊封正使・楊方亨が朝鮮の釜山を出発した。一方、副使の沈惟敬は正使よりも早く日本に到着し、6月27日、伏見城において秀吉に謁見している。正使が大坂に到着したのは8月29日で、9月1日、羽柴秀吉は大坂城で楊方亨と沈惟敬の2人の使節を引見した。
2人の使節は、明皇帝からの国書、封王の金印と冠服を秀吉に捧げた。これらの品は、明皇帝から秀吉に対する処遇を暗に示す物であったが、秀吉はもちろんそれに気づかない。
翌2日、冊封正使・副使を大坂城に饗応し、秀吉は明皇帝から贈られた王冠を着け、赤装束の服を着て上機嫌だった。酒宴のあと猿楽などが催され、秀吉にしても上々の首尾と感じていたところである。宴が終わって秀吉が明皇帝からの国書を僧・承兌に読ませたところ、「特に爾を封じて日本国王と為す」とあるだけで、秀吉がさきに明に要求した七ヶ条の条件については何もふれられていなかった。秀吉に贈られた赤色の官服とは、「皇帝」よりも格の下がる「国王」のものだったのである。
かつて秀吉が突きつけた要求は日本・明国双方の講和推進派の手によって、とにもかくにも講和を結ぶために「偽の降伏文書」に偽装され、講和を実現するためにへりくだった態度で講和交渉に臨んだ結果といえば妥当、もしくは寛大ともいえる処置であろうが、それらはすべて秀吉の知らぬところで行われたことたっだ。
この工作の首謀者のひとりでもある小西行長は事前にこの国書の「日本国王」という部分を「大明皇帝」と読み替えてくれるよう承兌に頼んでおいたのだが、承兌はそのまま日本国王と読んでしまったという。
秀吉が激怒したことはいうまでもない。再び朝鮮への出兵が命令されることになった。第2次朝鮮出兵、すなわち慶長の役のはじまりである。
慶長2年(1597)2月、秀吉は朝鮮再出兵の陣立て書を発表したが、それによると第1軍と第2軍は小西行長と加藤清正が交代で務めることとし、行長は慶尚道豆毛浦、清正は慶尚道西生浦から入った。第3軍が黒田長政・毛利吉成・島津豊久・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵・相良頼房で、第4軍が鍋島直茂と勝茂、第5軍は島津義弘、第6軍は長宗我部元親・藤堂高虎・池田秀氏・来島通総・中川秀成・菅達長、第7軍は蜂須賀家政・生駒一正・脇坂安治、第8軍は毛利秀元・宇喜多秀家という陣容で、その他に釜山浦・安骨浦など、文禄の役の休戦後も帰国せずに駐屯を続けていた将士を含めての総計で14万1千5百の兵が動員された。
7月15日に藤堂高虎・脇坂安治・小西行長・加藤嘉明・島津義弘らの軍が、元均(ウォンギュン)の率いる朝鮮水軍と戦い、これを巨済島に破っている。これにより全羅道南部の制海権を手中に収め、上陸後の日本軍は左軍と右軍の二手に分かれ、手当たり次第に殺掠しながら慶尚・全羅・忠清の3道へ兵を進めていったのである。
第一の標的は、全羅道の「完全」な制圧だった。この全羅道とは、さきの文禄の役において一揆、ゲリラと化した住民の激しい抵抗に遭い、苦しめられた地域である。これを「完全」に制圧するということは、住民を殲滅することにほかならない。秀吉は狂気の権化と化していた。
一方、日本軍再侵攻の報を受けた明国朝廷では、朝鮮に再び援兵を派遣することを決め、6月半ば頃より全羅道(チョルラド)南原(ナムウォン)付近の防備を固めた。ここが全羅道攻防の要となるからである。しかし日本軍は殺戮・略奪・破壊・放火と暴虐の限りを尽くしながら進撃し、激戦の末に8月15日に左軍が全羅道の南原城を攻め落とした。
従軍した医僧の記録によれば「物を取り人を殺し、奪い合う様は目も当てられない」「野も山も、城は申すに及ばず全てを焼き払い」「夜が明けて城の外を見れば、道端の死人がいさこ(砂)の如し。目も当てられない」などとある。狂暴徒と化した日本軍がいかに残虐な行為に及んだか、窺い知ることができる。
ところで、この慶長の役で特筆しておかなければならないのは、このときに日本軍が行った鼻切り・耳切りである。討ち取った朝鮮人兵士や民衆の首の代わりに鼻や耳を切り、それを名護屋城の秀吉のもとに送ったのは、なにも慶長の役が初めてではなく、すでに文禄の役においても島津軍などが行っているが、その規模の大きさは比較にならない。慶長の役の頃には、「男女生子迄も残らず撫切り致し、鼻をそぎ其日々塩に致す」とあるように、非戦闘員の、しかも生れたばかりの赤ん坊のものすら含まれていたのである。
この段階で、渡海した諸将たちの脳裏にあったのは、如何にして日本に送る鼻の数を増やすか、その数の多さでいかに秀吉を喜ばせるかであった。さきの文禄の役において、名前を日本風にさせたり、子供たちに「いろは」を教え込んで朝鮮を「日本化」させようとしていたのとは次元が違うのである。
塩漬けや酢漬けにした鼻や耳は、桶や樽・壷などに詰められて日本に送られたが、このときの日本軍の蛮行によって殺された朝鮮人の数は10万を下らないであろうといわれている。
その送られてきた耳や鼻を埋めたのが、京都の豊国神社の前にある耳塚である。
また、これも文禄の役より行われてきたことだが、「人さらい」も横行した。場合によっては子供をさらうために、その子の親を切り殺すことも珍しくなかったようである。さらわれた者は日本に連行されて労働させられたり、「奴隷」として売買された者も少なくなかった。
この朝鮮派兵において日本に連行された者は2万から3万人にものぼるといわれる。
朝鮮側も反撃の様相を見せる。更迭されていた李舜臣(イスンシン)が朝鮮水軍の指揮官に戻された。さきの海戦による敗北で残されたわずか13艘の兵船にて反撃戦を試みるのである。
9月14日、鳴梁(ミョンリャン)での海戦において地の利・潮流の変化を読みきって攻撃をかけ、日本水軍に大打撃を与えた。このときの戦いで来島通総が戦死、藤堂高虎が負傷した。これによって制海権は朝鮮水軍の手に渡り日本水軍の西進は断たれたのである。
また陸戦においては、漢城(ソウル)から忠清道を経て全羅道全州に南下してきた明軍と毛利秀元・黒田長政隊が9月はじめに稷山(イクサン)において激突した。戦況は一進一退だったが日本軍の北進は停滞することとなり、9月14日には後退をするに至る。
慶尚道においては慶長の役の主要な戦いとされている「蔚山城の戦い」が展開される。これは加藤清正・浅野幸長らが慶尚道蔚山に築城をはじめ、そこを拠点にしたのであるが、普請半ばの12月22日から明・朝鮮連合軍4万4千人の大軍に包囲されてしまったのである。厳寒の季節でもあり、水の手を断たれて兵糧も乏しいという過酷な籠城戦で、清正・幸長らも落城はもう時間の問題と考えていた。翌慶長3年(1598)1月4日、毛利輝元らの救援隊が西生浦から到着し、ようやく明軍も包囲を解いて退いている。
戦いはこのように朝鮮各地において一進一退を続け、これといって目立った展開が見られないまま月日だけが経過していった。
秀吉の病気が重いということは、慶長3年の7月頃には伝わっていた。しかし、8月18日に没したという情報は正確には伝えられなかった。秀吉の死ということで諸将が動揺し、士気に関わるという理由であると思われる。
秀吉の喪を秘したまま五大老・五奉行による停戦工作が始められた。秀吉の死後10日経ってから停戦・撤退の命令が出され、その命令を携えた使者・徳永寿昌と宮本豊盛が釜山に到着したのは10月1日のことであった。この10月1日には、明国と朝鮮の連合軍が慶尚道泗川(サチョン)に陣する島津勢を攻撃し、島津勢がこれを撃退するという泗川の合戦があり、まだ戦場では戦いが続行中であった。同じ頃に順天でも戦いがあったが、こちらでも日本軍が勝利している。
10月下旬になってようやく加藤清正・浅野幸長・鍋島直茂・黒田長政らのところにも帰国命令が届けられた。戦いは退くときが問題である。陸路ではさきの戦いの和議において撤兵の安全を約束されていたが、海路においては戦闘があり、小西行長らの隊は順天からの退路を抑えられ、島津義弘の救援によってようやく死地を脱するというありさまであった。この海戦において島津勢の水軍は大打撃を蒙って敗北を喫するが、この慶長の役における最後の戦闘において、日本水軍をことごとく討ち破った李舜臣を討ち取ったのである。
11月20日に島津義弘の軍勢が巨済島を離れて対馬に向かったことにより、第2次朝鮮出兵、慶長の役は終わりを告げたのである。
終戦を宣言する講和条約を結ぶ間もないままに撤兵し、朝鮮とは国交断絶となり、朝鮮各地に戦いの爪あとを残し、多数の人を無残に殺しただけであった。
このあと、捕虜として連行された人々によって日本の陶磁器業は飛躍的に発展することになるが、それを戦いの副産物と呼ぶことに抵抗を隠せない。
また、この2度の戦役において石田三成・小西行長・福原長堯ら『文治派武将』と加藤清正・福島正則・黒田長政ら『武断派武将』の確執が深まり、この対立感情が関ヶ原の役にまで尾を引く一因となるのである。