鍋島直茂(なべしま・なおしげ) 1538〜1618

天文7年(1538)3月13日、肥前国佐賀郡本荘村に生まれる。龍造寺家臣・鍋島清房の二男。母は龍造寺家純の女。幼名は彦法師。信安・信真・信昌・信生とも称す。飛騨守・加賀守。
母方の従兄弟にあたる龍造寺隆信に仕え、大友氏との度重なる合戦において武勇を発揮した名臣。
天文9年(1540)、肥前国小城郡の千葉氏が少弐氏と和睦するに際して龍造寺氏とも連携することになり、天文10年(1541)に千葉胤連の養子となった。
天文20年(1551)に実家に召還されて龍造寺氏に仕え、天文22年(1553)10月の小田政光攻めが初陣。
弘治2年(1556)春、父・清房に隆信の母(慶ァ)が再嫁したことにより隆信と義兄弟となる。これは直茂の資質を見抜いた慶ァが、隆信と直茂の結びつきを深め、龍造寺氏の強化を図るための方策であったという。
永禄12年(1569)の大友宗麟による佐嘉(佐賀)城攻めに際しては籠城を主張、善戦して和議をもたらした。永禄13年(=元亀元年:1570)には、佐嘉城を攻めるために今山に布陣した大友軍の大将・大友親貞に夜襲をかけ、これを壊滅させる活躍を見せる(今山の合戦)。
天正8年(1580)より龍造寺政家が隆信より家督を譲られて龍造寺氏の当主となるが、これをよく補佐して領国経営に優れた手腕を見せた。
天正12年(1584)に肥前国島原で隆信が戦死(沖田畷の合戦)したのちに政家が家督を後継したが、政家は病身のために国政を執ることができず、子の高房も幼かったために直茂が国事を代行することとなり、実質的に龍造寺氏の実権を掌握した。
天正15年(1587)の九州征伐には龍造寺政家の名代として羽柴秀吉の旗下に参じ、征伐軍の先鋒として戦功を挙げた。龍造寺氏は肥前国にて7郡を安堵され、直茂自身も神埼郡のうちで4万4千5百石の知行を受けた。
天正18年(1590)3月に病身を理由に政家が隠退すると、政家の祖母・慶ァ尼や重臣一同の支持を受け、秀吉からも龍造寺氏の采配を許されて、実質的な肥前国の太守となる。秀吉の信頼も厚く、長崎奉行も務めた。
文禄の役では、加藤清正と共に朝鮮王子を捕虜とするなどの功績を挙げた。この陣中における直茂について加藤清正は「自分の生涯においてこれほどやりやすい戦はなかった。すべて直茂のおかげで、武功に逸って先陣を争うこともなく、軍律を固く守って協力してくれた」と絶賛している。
慶長の役においても渡海した。
秀吉の没後は時勢を読んでいち早く徳川家康にも誼を通じ、領国の安泰を図った。
関ヶ原の役のときは肥前に在り、東軍の勝利を知ると筑後に兵を出して、毛利秀包の籠もる久留米城を攻め取り、ついで立花宗茂の居城である柳河城をも攻め落とした。
慶長12年(1607)、龍造寺政家・高房父子が相次いで死去したために龍造寺氏の本宗家は断絶となるが、慶長18年(1613)には幕府の裁定によって直茂の嫡男・鍋島勝茂への継承が正式に認められ、名実共に鍋島氏による支配が確立することになる。直茂はそののちに致仕するが、なおも後見の地位にあって領国統治を補佐した。
元和4年(1618)6月3日、佐賀城にて病死。81歳。法名は日峯宗智大居士。その生前の言行は藩士・山本常朝が語り残し、武士道の修養書『葉隠』の典籍となった。