龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ) 1529〜1584

肥前国の戦国大名。龍造寺周家の子。母は龍造寺胤和の娘(慶ァ尼)。龍造寺氏の分家である水ヶ江龍造寺家の始祖・龍造寺家兼の曾孫にあたる。
享禄2年(1529)2月15日に水ヶ江龍造寺家に生まれ、幼名は長法師丸。初名は胤信。ついで隆胤、隆信と改めた。山城守。
通称を『肥前の熊』。晩年の風貌は「(合戦のとき)あまりの肥満体のために馬に乗れず、6人担ぎの山駕籠に乗って指揮をしていた」という。
幼児期には軍記物語を読み聞かされることを好んだ。『平家物語』の壇ノ浦の合戦の条を一度聞いただけで憶えてしまったといい、その器量を見抜いた曾祖父・家兼の指示で天文4年(1535)に宝琳寺に入り、中納言円月と称する。
天文14年(1545)1月、祖父の家純や父の周家が少弐家臣・馬場頼周の謀略によって討たれ、家兼は筑後国へと追放された。以後は蒲池鑑盛を頼ったが、のちに家兼は頼周を討って報復を遂げている。
この翌年の天文15年(1546)、円月は家兼の死去に際して還俗して民部大輔胤信と名乗り、水ヶ江龍造寺家を継いだ。これは家兼の遺志でもあった。円月の気宇広大の質を見抜き、「龍造寺家を繁栄に導く者は円月しかいない」とまで断言したという。
天文17年(1548)には龍造寺宗家(村中龍造寺)の龍造寺胤栄が急死すると胤栄の後室を妻として宗家を継承、第19代の当主となって佐嘉郡佐嘉城(村中城)に居した。
天文19年(1550)7月、大内義隆の斡旋で山城守に任官するとともに義隆の諱を受けて隆胤と名乗り、のちに隆信と改名。
義隆の死後の天文20年(1551)10月、水ヶ江家の龍造寺鑑兼を擁立した胤栄の旧臣・土橋栄益に逐われ、筑後国に逃れて蒲池鑑盛を頼ったが、天文22年(1553)7月に挙兵して肥前国に攻め入って佐嘉城を奪還し、入城を果たした。
その後は近隣領主を攻め従えて勢力を拡大し、永禄2年(1559)1月には千葉氏の内紛に乗じて軍勢を派遣し、かつての主筋にあたる少弐冬尚(時尚)を攻め滅ぼし、大いに勢威を挙げる。3月頃には神埼・三根・養父・基肄(きい)の肥前国4郡を支配圏とした。
永禄6年(1563)頃より豊後国の大友宗麟と対立し、大友氏に通じた有馬氏や松浦党などと激しく戦う。
永禄9年(1566)頃より安芸国の毛利元就と提携して大友勢に対抗したが、永禄12年(1569)に毛利勢が九州から兵を退くと大友勢の侵攻を受けた。永禄13年(=元亀元年:1570)3月より佐嘉城を大軍に包囲されて苦境に陥るが(佐嘉城の戦い:その2)、8月の今山の合戦の勝利によって劣勢を挽回、大友勢の佐嘉城攻めを撤退させてその武名を広めた。
大友氏との講和が成立するとその矛先を有馬・松浦・原田氏に転じ、天正4年(1576)より南肥前の制圧に取り掛かって彼杵郡や藤津郡に進出、天正6年(1578)3月には島原半島で有馬晴信を降し、肥前国をほぼ平定した。
またこの年の11月、大友氏は日向国で島津氏と戦って大敗を喫して(耳川の合戦)勢力が衰退しており、隆信はこの機会を逃さず旧大友領への進出を図って筑後国・肥後国・筑前国に転戦し、天正7年(1579)12月頃には筑後一国と肥後半国を平定。天正8年(1580)には大友家の名将・立花道雪の軍勢と戦って有利に和議を調え、筑前国のうち西南9郡を得た。また、この後には豊前国北部にも侵攻している。
天正8年頃に家督を嫡男・政家に譲って須古城に移ったが、それからの隆信は酒色に溺れ、精神に乱れを見せるようになり、諸将の心もしだいに離れていったという。
天正9年(1581)4月には肥後国を制圧。
この後、肥前国において島津氏と闘争するようになると政家を玉名郡南関に布陣させ、島津義弘の侵入に備えさせたが、天正11年(1583)10月に秋月種実の仲介によって和議を結び、高瀬川西北の領域を龍造寺領として確保する。このとき島原半島の有馬勢力支援のために駐在していた島津勢力も撤収させた。
しかし翌12年(1584)3月、有馬氏と呼応した島津義久は弟の家久を再び島原半島に侵入させ、隆信はこれを迎え撃つために自ら兵力を結集して島原に渡り、島津・有馬連合軍に決戦を挑んだが、用兵を誤って敗死した(沖田畷の合戦)。3月24日、享年56。法号は龍泰寺殿泰厳宗龍大居士。