水ヶ江龍造寺氏の始祖・龍造寺家兼の長男。龍造寺家門の兄。龍造寺隆信の祖父にあたる。初名は重純。のちに尚純、ついで家純と改名。兵庫助・右衛門大夫・豊後守。
父・家兼は天文7年(1538)に隠居したが、この際に水ヶ江龍造寺氏の家督を家純ではなく、二男の家門に譲っている。これは家純が病身のためであったためという。
天文13年(1544)の冬に少弐家臣・馬場頼周が水ヶ江龍造寺氏の失脚を謀ったときには子・周家らと共に肥前国小城郡梶峰城攻めに出陣し、翌天文14年(1545)1月18日に陥落させた。しかし本城である肥前国佐嘉郡水ヶ江城を頼周らに攻められ、その和議条件によって弟・家門や子・純家らと共に筑後国に赴くことになり、その途次の1月23日の夜、川上与止日女神社境内で神代勝利らの軍勢に襲われて自刃した。
またこのとき、家純らと別行動を取らされた2人の子・周家と頼純も、馬場頼周の謀計によって討たれている。