馬場頼周(ばば・よりちか) ?〜1545

少弐家臣。馬場頼員の子。少弐氏の一族で、少弐満貞の曾孫にあたる。肥前守。肥前国神埼郡綾部城・三根郡中野城主。
主家である少弐氏に従って大内氏とたびたび戦い、享禄3年(1530)8月の田手畷の合戦にも参陣している。また、天文9年(1540)には江上尚種や龍造寺家兼らとともに肥前国千葉氏の内訌の調停について協議するなど、重臣的地位にあった。
天文13年(1544)の冬、台頭著しい水ヶ江龍造寺氏に対し、主君の少弐冬尚に讒言して龍造寺家兼一族の壊滅を画策した。この謀略によって水ヶ江龍造寺氏は各所に分散しての出兵を命じられ、各個撃破されて多くの武将を失い、大きく勢力を削がれることになった。さらに謀略を重ねて家兼を筑後国に放逐すると同時に、家兼の子である家純家門や孫の周家・純家・頼純・家泰らを討ち取って水ヶ江龍造寺氏を瓦解させた。
しかし天文14年(1545)4月、鍋島清久らの手引きによって再挙した家兼によって討たれた。