少弐冬尚(しょうに・ふゆひさ) 1528?〜1559

肥前国神埼郡勢福寺城主・少弐資元の子。幼名は松法師丸。初名を興経、のち時尚とも名乗る。大宰少弐・筑前守。
享禄3年(1530)に父・資元より家督を譲られたと伝わるが、実権は未だ資元に在ったようである。この年に中国地方の大大名である大内義隆の筑前守護代・杉興運の軍勢が勢福寺城に迫ったが、被官の龍造寺家兼や鍋島清久らの活躍で撃退されている(田手畷の合戦)。
しかし大内氏の攻勢は続けられ、天文元年(1532)11月より大内氏の将・陶興房が北九州経略に派遣されるとこれに抗しきれず、天文3年(1534)10月に龍造寺家兼の斡旋で大内氏と和議を結ぶが、実質的には降伏であった。さらには天文4年(1535)12月には約束を違えた大内勢の攻撃を受け、冬尚は肥前国神埼郡蓮池城の小田資光を頼って落ち延びたが、父の資元は翌天文5年(1536)9月に多久で自刃している。
その後の天文9年(1540)には龍造寺氏の援助を得て勢福寺城に復帰し、天文10年(1541)には大友義鑑と結んで再起を期したが、天文13年(1544)11月に少弐一族・馬場頼周の讒言を容れ、家兼を欺いてその勢力を削減したうえで筑後国に逐うも翌年4月には再起した家兼が頼周を討ったため、結果として少弐勢力の衰退を招くこととなった。さらには不仲になった村中龍造寺氏(龍造寺氏の宗家)が大内氏に通じ、天文16年(1547)3月頃より龍造寺胤栄らと戦って敗れ、10月に至って筑後国に出奔した。
翌天文17年(1548)3月に胤栄が没すると旧領復帰を目論み、7月には対馬島主の宗氏の援けを受けて勢福寺城を回復した。しかし龍造寺家兼の曾孫で龍造寺氏宗家を継承した龍造寺隆信の圧迫を受けて弘治元年(1555)頃には再び筑後国に奔り、被官もほとんどが龍造寺氏に降った。
永禄2年(1559)1月に実弟の千葉胤頼を頼ってその居城・肥前国小城郡晴気城に移ったが、胤頼と敵対する千葉胤連と龍造寺勢に攻められ、旧臣・江上武種の勢福寺城に逃れたが支援を得られず、11日に自害した。32歳か。法名は安心本海。
この冬尚をもって少弐氏は断絶した。