蒲池鑑盛(かまち・あきもり) 1520?〜1578

筑後国の国人領主。武蔵守・近江守。号は宗雪。筑後国柳川城主。
蒲池氏は筑後国屈指の勢力を有する国人領主で、鑑盛は蒲池氏宗家(下蒲池家)の系統である。
大友氏に属していたが、天文13年(1544)、馬場頼周の策謀によって所領から放逐された少弐氏の属将・龍造寺家兼を庇護した。また、家兼の曾孫にあたる隆信が天文22年(1553)に逐われて筑後国に落ち延びたときも、鑑盛は大友氏の了解を得て隆信を領地の一ッ木に匿うなど、敵方の将にも情けをかける情義に篤い武将であった。
永禄13年(=元亀元年:1570)に大友宗麟が肥前国佐嘉城に拠る龍造寺隆信を攻めた際(佐嘉城の戦い:その2)には、大友方として同じく筑後国の国人領主・田尻鑑種らとともに水軍を率いて佐嘉城南方に布陣した。
天正6年(1578)10月から大友宗麟の日向国侵攻に従軍。子・鎮並はこのとき既に衰退する大友氏を見限って龍造寺氏に内通していたといわれるが、鑑盛は大友氏への忠節を尽くし、11月の耳川の合戦では先陣として奮戦したが、大友勢の敗北を見て取ると自刃して果てた。享年59か。法名は松梅院殿長國覚久居士。