蒲池鎮並(かまち・しげなみ) ?〜1581

筑後国の国人領主。蒲池氏宗家(下蒲池家)・蒲池鑑盛の子。母は田尻鑑種の姉。名を鎮竝・鎮漣とも書く。通称は十郎。式部大夫。筑後国山門郡柳川城主。
はじめ大友氏に属し、天正6年(1578)の大友宗麟による日向国侵攻の際には父・鑑盛と共に出陣したが、途次で落馬による体調不良を理由として引き返し、参陣しなかった。この頃すでに大友氏を見限って龍造寺隆信に通じていたいわれ、その直後の龍造寺氏による筑後国侵攻に従軍しており、叔父・田尻鑑種の調略にも尽力している。
しかし天正8年(1580)頃に隆信と不和となり、2月より攻囲を受けるが、柳川城に籠もって10ヶ月に及ぶ籠城戦を展開。11月28日に至って降伏するが、この間に島津氏に通じていたことが知られ、天正9年(1581)5月28日、隆信の居城である須古城に招かれて謀殺された。法名は本源院殿哲心覚英大居士。
猿楽の名手であったと伝わる。