筑後国の国人領主。田尻親種の子。中務大輔。筑後国三池郡鷹尾城主。
はじめ豊後国の大友氏に属し、永禄10年(1567)の休松の合戦では敗走する大友勢の中にあって立花道雪や三池鎮実らとともに奮戦した。
永禄13年(=元亀元年:1570)に大友宗麟が龍造寺隆信の拠る肥前国佐嘉城を攻めた際(佐嘉城の戦い:その2)には蒲池氏らとともに水軍として従軍しており、同年8月の今山の合戦による戦勝で龍造寺勢が気炎を上げると、宗麟の意向を受けて龍造寺氏との和睦を仲介している。
天正7年(1579)、岩栖氏の仲介で龍造寺隆信の臣下となる。同年3月に龍造寺氏が三池鎮実を攻めたときには先陣を務め、玉名郡筒岳山城主小代氏を破るなど、龍造寺氏の筑後国侵攻に協力した。
天正9年(1581)に隆信が蒲池鎮並を謀殺したのちの蒲池残党の掃討に際し、その中心となった。
しかし隆信の非道な振る舞いに反発して島津氏に内通したため、天正10年(1582)10月より龍造寺勢に攻められるが、鷹尾城に籠もって防戦。この後、龍造寺勢は鑑種と時をほぼ同じくして叛旗を翻した辺春氏の討伐に主力を向けたため、危機を脱した。
天正11年(1583)11月末、鍋島直茂と秋月種実の取り成しで講和に至り、開城。鑑種以下一門が龍造寺政家に起請文を出し忠誠を誓った。この講和条件で従前の所領は没収されたが、子の名義で新地が与えられ、佐嘉郡高尾に移住した。
天正12年(1584)の沖田畷の合戦で龍造寺隆信が戦死したのちは鍋島直茂に従い、旧領を復されて筑後国の防衛を命じられた。