秋月種実(あきづき・たねざね) 1545〜1596

筑前国古処山城主・秋月文種の二男。高橋元種の実兄。幼名は黒帽子丸。筑前守。剃髪して宗ァ・笑翁と号す。
秋月氏は筑前守護の大内氏が滅びたのちは豊後国の大友宗麟に従属していたが、毛利元就に通じて大友氏に叛いたため、弘治3年(1557)6月下旬頃に大友氏からの追討を受けた。このときに父・文種や、その嫡男である晴種が戦死して壊滅状態に陥ったが、種実は郎党と共に毛利氏を頼って周防国に落ちのびた。
その後の動向には諸説あるが、九州侵攻を企てる毛利氏の支援を得て永禄10年(1567)までには古処山城主の地位に復帰しており、龍造寺隆信筑紫広門・宗像氏貞・高橋鑑種・立花鑑載らと通じて挙兵し、大友氏に敵対した。このため大友勢から討伐を受けることになるが、古処山城に籠もってよく防戦し、9月3日には立花道雪らが率いる大友勢を休松に急襲して撃破する(休松の合戦)など抵抗を続けたが、永禄12年(1569)に至って毛利氏が九州侵攻を断念して撤退すると、再度大友勢に攻められて降伏、従属を余儀なくされた。
しかし天正6年(1578)11月に大友氏が耳川の合戦で島津氏に大敗すると、その時勢に乗じて島津氏に接近。島津氏の後ろ楯を得て再び反抗に及び、勢力を伸ばして筑前・筑後・豊前国のうちで11郡を手中にした。
天正11年(1583)より島津氏と龍造寺氏の和平、さらには反大友連合体の形勢を画策するが失敗。しかし龍造寺隆信敗死後の天正12年(1584)9月に和平を成立させた。
天正15年(1587)の羽柴秀吉による九州征伐のおりには島津氏に味方したが、羽柴勢に攻められると抗し得ずして4月には開城降伏を決め、剃髪して秀吉に名器「楢柴の茶入れ」を献じて許された。その後は羽柴勢の先鋒を務めた。
慶長元年(1596)9月26日没。52歳。子の種長は、日向国財部(高鍋)3万石に封ぜられた。